ゴキブリと食欲の関係

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 事務室で書類仕事に精を出していたら、台所の方から絹を裂くような悲鳴が聞こえた。おっとり刀で駆けつけると、若い女性職員がガスコンロと壁の隙間を指差して立ちすくんでいた。わざわざ確認するまでもない。僕の職場では、一年を通して室温を一定に保っている影響で、冬場でもゴキブリが出るのだ。

 女性職員は僕を見てホッしたようだった。恐怖に引きつった表情が、みるみる緩んだ。視線が熱を帯びている。いつもの醜いガマガエルに投げかける一瞥ではない、颯爽と現れた白馬の王子様に向ける眼差しだ。両腕を広げて迎えに行ったら、頬を桜色に染めて胸の中へ飛び込んでくるに違いない。
 ここで普段の汚名返上とばかりに、怪傑ゾロよろしく立ち回るべきだったのかもしれない。しかし、僕はとっさに真逆の行動をとった。とりあえず彼女には少し待つように伝え、すがるような視線を振り払ってパートのおばちゃんを呼びに走った。これを境に僕の評価はリカバリーが不可能なほど土に塗れるだろうけれど、刹那的で浮ついた女性の評価など知ったことではない。
 ゴキブリが苦手だ。男だからとか年甲斐もなくとか、そんなことは関係がない。テラテラと黒光りした見かけから受ける生理的嫌悪感を克服できないのだ。名前を聞くだけで虫唾が走る。背筋が凍りつく。きゅっと生唾がわき、脊髄反射でお腹がグウと鳴る。
 戦いは一瞬でケリがついた。手に持ちかえたスリッパで、一撃のもとにゴキブリを屠ったおばちゃんの技倆を褒め讃えながら、僕は僕で降って湧いたような空腹感と戦っていた。
 
 その店は、とにかくゴキブリが多い。食い物を扱う店だから、ある程度は仕方がないとは思うけれど、そこいら辺の事情をさっぴいても多い。シャモジくらいの丸々と太った奴が、堂々と壁に張り付いて触覚を震わせていたりする。客のほうも慣れっこになっていて、それにいちいち過剰に反応したり、わざわざ店主に苦情を申し立てたりはしない。友人に連れられて初めて店を訪れた時は、これは何かの悪い冗談で、実は作り物なのではないかと思った。店と常連客が一丸となって、新参の客をからかっているのではないかと勘ぐったのだ。
 なにせ、店内が汚い。そこら中に油が跳ね飛んでいて、入り口の引き戸からテーブルの裏側まで、なんだかヌルヌルベタベタする。店内に短時間滞在するだけで、体中がベトつくような錯覚を覚える。ところが味は絶品ときた。看板の餃子もさることながら、サイドメニューの質たるや絶賛に値する。中でも粥は匠の域に到達している。とろりとしていて意外とあっさり味なのに、噛みしめると滋味とコクが沁み出す。その上、値段はお手ごろでボリュームがある。付けあわせで出てくる梅干がまた絶妙だ。肉厚で汁気があってエグいくらい塩辛い。単体で食べるなら間違いなく口に合わない筈なのに、口当たりはむしろ良くて、後味はすっきりと甘い。食べ合わせても粥の風味を殺さない。

 ゴキブリ嫌いの僕は自然と足が遠のくのだけれど、一度でもあの粥の味を知ってしまうと食べずにはいられない。ゴキブリを見るたびに、パブロフの犬の如く生唾がわくのだ。今夜あたり行ってみようかな、という気分になる。そして毎回、店の暖簾をくぐる際に、今日はデカイのに当たりませんようにと念じながら足を踏み入れる。店内に入ったら、そこから先は料理を味わうことだけに集中する。石になる。見えていないものは存在しないのだと、自分に言い聞かせる。仮に遭遇したとしても、それはゴキブリではない。這っても黒豆ならぬ、這っても壁のシミ。いや手ぬるい。飛んでも壁のシミだ。  
 

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by tigersteamer | 2013-03-15 04:38 | 食べ物一般 | Comments(0)

虎蒸気あらため河蒸気。オートバイとは無縁の生活を3年送りました。そろそろ復帰します。


by 河蒸気