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すき焼きが好きやき

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 すき焼きは好きだが、基本的に玉子は使わない主義だ。肉の味がわからなくなるというのがその理由だ。基本的と言うからには例外もあるわけで、場合によっては使うこともある。ただし、黄身を潰すことはない。白身のみを肉に絡めて食べる。もう長いこと、その食べ方しかしたことがない。

 そうでなくても常識のない人間には違いないけれど、食にまつわる部分に関してはハナから無視してかかる習性がある。少々見た目が悪かろうが、美味しければそれに越したことはないと思っている。たいして育ちが良いわけではないので、食事の作法やエチケットを持ち出されると困ってしまうのだけれど、そういった約束事とは別に、世の中には食べ方の王道邪道に拘る人がいる。粋じゃないとか、本来の食べ方に反しているとか、果ては『主義』を持ち出す人もいて閉口する。美味しく食べている横で取るに足らない薀蓄を語られたりすると、この野郎、黙って食えと言いたくなる。
 その僕がなぜ、すき焼き限って食べ方に固執するのかといえば、むしろそれが美味しく食べるための理にかなっていると感じるからだ。肉の品質が高ければ、なにもつけずにそのままを食べる。言わずもがな、素材の良いところを堪能するためだ。安い肉である場合に限っては玉子の白身を用いる。煮込まれて脂が溶け出すと、全体が萎んで舌触りが悪くなるから、それを補うためだ。
 自分を食通だと思ったことはないし、どちらかといえば味音痴に近いのだけれど、他人が溶き玉子に肉を沈めてズルズル啜っているのを横で見ながら、なんて節操のない食べ方をするものだと鼻で笑っていた。嫌味な男だ。

 以前、友人に連れられて老舗のすき焼き屋を訪れた際に、仲居さんから卵を使うことを強く勧められたことがあった。肉の味がわからなくなるからと頑なに手を出さないでいたところ、しまいには半ば強制するような口ぶりで、そんなことを言う客は初めてだ、騙されたと思って試してみろと断言する。場の雰囲気を悪くするのもなんだし、仕方なく従うことにした。そして、もちろん旨かった。まったく予想通りの美味しさだった。
 実際のところ、僕も皆と同じ食べ方をしたいのだ。落語『そば清』の有名なマクラではないけれど、このままでは「死ぬ前にもう一度、溶き玉子にドップリつけたすき焼きの肉を食べたかった」なんてことになりかねない。

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 そもそもこの食べ方は、僕のオリジナルではない。いまから二十年くらい前だろうか。たまたま見に行った落語会で、桂三枝(今は桂文枝)が高座にかけたネタの中に出てきたのだ。演目を『遠慮のかたまり』だと間違って憶えていたのだけれど、正しくは『スキヤキ』だ。高座で実際にすき焼きを作りながら演じるという、大変に斬新な創作落語だった。
 あらすじはこうだ。
新しく赴任してきた人のために、上司の家で歓迎のすき焼きパーティーをする。上司が自ら作ろうとすると、部下が脂の量に文句をつけてきた。聞いてみると、自分は大学のときに料理を研究して、究極のすき焼きを見つけたというので、それを作ってもらう。

食べている間もすき焼きの思い出話になり、新しく赴任してきた人は兄弟が多くて、子供の頃はとても肉を口に入れることができなかったとのこと。四年に一度のスキヤキのときには、兄弟が本気で肉を争っていた。実はつい先日も親が亡くなって、スキヤキを食べながら遺産分けの話をしたら、自分は思い出の土地家屋を売りたくないのに、他の兄弟が売ると言って、大喧嘩になったという。

そこに自宅から電話がかかってきて、その兄弟が今から家にくるとのこと。上司が、すき焼きで仲直りをしろと気を利かせて、余っている肉をおみやげにして持たせる。男が家に帰ると、妻がお義兄さんが来ると言うので、急いで肉屋に行って、すき焼き用の肉を分けてもらったという。そこに兄がやってきて、遺産分けのことでもめて済まなかったと謝る。お前の言うとおり、思い出の土地家屋は売らないことにした。これからも兄弟仲良くやっていこうと、兄が差し出したお土産がスキヤキの肉だったというサゲ。(『桂三枝の創作落語あらすじメモ』より転載)
 厳密に言うと、僕が見たのとは後半の展開が違う。たしか、最後に残った一切れの肉(これを「遠慮のかたまり」と呼ぶ)を、家で帰りを待っている太郎の土産にしたいと申し出て上司をしんみりさせたものの、実は太郎は人間ではなくて犬だったというサゲだった。「さあ太郎、お食べ」「ワンワン!」に腹を抱えて笑った。細かいところまで憶えているわけではないけれど、玉子の使い方については、”究極のすき焼き”のくだりに出てきた。実にくだらなくて、あんまり面白かったものだから、すき焼きの正しい食べ方として、しっかり胸に刻まれたというわけだ。そしてそれ以来、僕はすき焼きを心の底から堪能できずにいる。

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 すき焼きは好きだが、基本的に玉子は使わない主義だ。肉の味がわからなくなるというのがその理由だ。肉の品質が高ければ、なにもつけずにそのままを食べる。安い肉である場合に限っては、口触りを良くするために卵の白身を用いる。 
 主義とは本来、揺るぎない国の指針を指す言葉だ。これを個人のレベルに当てはめると、時として精神論の領域に踏み込まざるを得ない。その結果、行動の幅を狭め、狭量で堅苦しい人物ができあがる。

 僕の安月給では、高級なブランド肉などおいそれと口にできるものではない。情けないけれど、必然的に卵の白身を使うことになる。いっそ黄身も潰してしまえばいいのだろうけれど、なんだかそれもできない。主義だと言いつつ根がノンポリである僕は、すき焼きを前にしみじみと思う。死ぬ前にもう一度、溶き玉子にドップリつけたすき焼きの肉を食べたい。いやむしろ、玉子の白身を使わなくてもよい高級な肉を、腹いっぱい食べてみたい。
 

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by TigerSteamer | 2014-03-06 08:00 | 食べ物一般

納豆狂の詩

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 ツーリングに出向いた先で、予期せず美味しいものに出会った時に「ここにビールがあったら」とか「これをおかずに白飯が食べたい」と思うことはよくある。他の人が実際に口にしているのを耳にしたこともあるから、僕に限ったことではないのだろう。ただし、「ここに納豆があったら・・・」というのは、他では聞いたことがない。美味いものだけにとどまらず、目新しいものなら何でも、納豆と混ぜてみたい衝動に駆られるのだ。もはや神経症の一種と言ってもいい。

 学生時代には納豆のトッピングに凝った・・・と以前にも書いた。狭い了見と乏しい知識で、いっぱしの納豆通を自負していたけれど、いま思えば「マヨネーズ」程度で有頂天になっている井の中の蛙でしかなかった。世の中にはまだ、僕の発想を軽く凌駕するような、目から鱗の組み合わせがあるのだ。
 納豆に凝り始めた者の常として、つい道を誤って主従が逆転する傾向がある。納豆を主役にした食べ方を追い求めるうちに、いつの間にか納豆を食材にした料理を考案しだすパターンだ。納豆カレーや納豆ラーメンなどの、納豆をトッピングにした料理は序の口だ。気がつくと、むしろ納豆じゃない方が美味しい創作料理を前に、自信満々で自前のレビューを添えていたりする。

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 その境界線を示す、一番分かりやすい例が納豆汁だ。すり潰した大量の納豆に味噌を加え、出汁でのばした納豆汁は、納豆エキスを凝縮した納豆料理の王様と呼んで差し支えない。ねっとりと舌にまとわりつく食感も、鼻の奥に染み付いて離れない臭いも、単品で供される納豆のそれを軽く凌駕している。慣れないうちはゲテモノ以外の何物でもないが、しかし好きな者にとっては何物にも代え難いご馳走になる。
 ただし、納豆料理としては最高峰に位置する納豆汁ではあるけれど、そこから汁物路線で展開していった先にあるのは、納豆好きがマイノリティであることを痛感できる料理の数々でしかない。独特の味や風味は薄れ、粘りも臭いもない凡庸な料理に成り下がってしまう。頂の先には下りの稜線しかないのだ。

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(北大路魯山人 1883-1959)

 厳密に言えばトッピングではなくて味付けだけれど、有名なところでは北大路魯山人の「砂糖醤油」がある。初めて耳にした時は、なんて馬鹿なことをする輩がいるものだ、納豆好きの風上にも置けないと歯牙にもかけなかった。ところが、さらに少量の「酢」を垂らしても美味だと書いてあって、あまりに調味後の味がイメージしにくかったものだから、冗談半分にやってみたことがあった。これが何というか、決して悪くはなかった。僕の好みとは違うけれど、不見識を恥じるくらいに、まともな味だった。後に聞いた話によれば、東北以北では珍しくもなんともない食べ方であるらしい。
 また、魯山人は「塩」がいいとも言っている。むしろ通好みだとのこと。もちろん、こちらも試してみた。味の調節が少々難しくはあるけれど、結果は「砂糖」の時と同じだった。しのごの言わずにやってみるものだ。

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 納豆汁でわかるように、味付けとしては「味噌」も捨てがたい。なにしろ王道の「醤油」にしろ「味噌」にしろ、そして納豆自体も大豆の加工品なわけだから、相性が良いのに不思議はない。あらかじめ、しつこいくらい練って旨味を引き出した納豆に、味噌をひとかけら落として、さらに練る。種類の数だけバリエーションがあるのも、味噌の優れたところだ。⚪︎⚪︎の味噌漬けといった食品を、味噌ごとトッピングとして加えるのもいい。熊本県は五木村名物の『豆腐の味噌漬け(通称、山うに豆腐)』は納豆の相方としては五指に含まれる。
 ただし、例外もある。昨年の十二月、いまきん食堂を訪れた帰りに、お土産として『肉味噌』を購入した。細かく刻んだ赤牛の肉を煮込み、味噌に漬け込んだものだ。もちろん納豆とのブレンドを楽しむのが目的だったのだけれど、これは鉄板だと信じて試したわりに、相性はイマイチだった。牛肉から染み出した脂が納豆の旨味を封じ込めてしまって、期待通りの足し算にはならなかった。さらに後日、肉味噌の隣で山積みになっていた、『唐辛子とニンニクの塩麹漬け』も購入してみたところ、肉味噌の時の肩透かしを遥かに超え、完膚なきまでの一敗地にまみれた。

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 これが初めてではないのだ。ツーリング先で物珍しい品を見つけると、どうにも納豆と混ぜてみたい衝動を抑えきれなくなって、買って帰って試してから後悔する。我が家の冷蔵庫には、そういった各地方の珍味が結構な量の堆積物となっていて、正常な食卓の運用を阻害している。
 これが『肉味噌』なら、納豆に混ぜる以外の食べ方をすればいいわけだから、大した罪はない。普通にご飯にのせる分には、こんなに優れたおかずはない。しかし、一昨年の夏に十二指腸潰瘍を患ってからというもの、唐辛子の尖った辛味が大の苦手になってしまった僕にとって、この『唐辛子とニンニクの塩麹漬け』は鬼門以外の何物でもない。もうそろそろ3ヶ月になるから、賞味期限切れが近い。箸の先につけて舐めるだけで火を吹くほど辛い物を、短い間でカップ一杯消費するのは不可能だ。

 家族に諌められ、もう二度と同じ過ちは犯さないと誓う。なにも化学の実験をするわけではないから、ある程度の予想はできそうなものだ。それでいて何度でも繰り返すのは、心のどこかで魯山人の「砂糖」のような、先入観をブチ壊すカルチャーショックを期待しているからだ。ギャンブル狂が依存症という病なら、大穴狙いの納豆狂もまた心の病であるに違いない。そうやって色々試した後でたどり着くのは、やはり「醤油」だけで、他には何も入れない納豆がいちばん美味いという事実であったりする。世界中を旅して、母港に戻った船乗りのような感慨。納豆とはかようにスケールの大きな食べ物なのだ。(ここで問題です。文中に納豆は何回出てきたでしょう)
 

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by TigerSteamer | 2014-02-15 02:00 | 食べ物一般

ガンジス川の追い剥ぎコロッケ

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 昨年の5月に当ブログで紹介した『追い剥ぎコロッケ』を憶えておられるだろうか。その反響たるや凄まじく、日本全国津々浦々、果ては海外からもサーバーがパンクせんばかりのアクセスがあったなんてことはなく、むしろ読まれた回数は群を抜いて少なく、ついでに書いた本人もほとんど忘れかけていた。
 精魂込めて書いた文章ほど誰も注目してくれないというのは、このブログが始まって以来のお約束だ。最初の頃は不本意と不甲斐なさに煩悶としたものの、じきに慣れてしまった。僕自身も、基本的に思わしくない事象からは積極的に目を逸らすタイプの人間なので、なんら気に病むことなく現在に至る。ただ、これから紹介するお店と密接な関係があるので、興味がある方は一読していただきたい。なければないで、今回の記事ごと飛ばしていただいても構わない。

 さて、件の「追い剥ぎコロッケ」だ。世の中に浸透している間違った認識であるところの「ジャガイモのピカタ」を駆逐し、それに代わる名称として、僕が20年前に考案した「追い剥ぎと炭焼き職人のコロッケ」を定着させたい、というようなことを書いた。今もその思いは変わっていない。実際、ブログで記事を公開した後も、しばらくの間は草の根的な活動を続けていたのだけれど、あまり周囲の反応が芳しくなかった。「衣のないコロッケはコロッケじゃない」とか、「なんで衣なしコロッケじゃダメなの?」とか、「それだと追い剥ぎじゃなくて、追い剥がされコロッケになるんじゃない?」とか、ぐうの音も出ない程ごもっともな反論にさらされて、早々に心が折れてしまった。”伊の鉄人”坂井宏行とか辻調理師専門学校の先生あたりに、テレビでスバリと言ってもらえば効果があるに違いないけれど、僕一人の力には限界があるのだ。

 そもそも、呼び名がどうだとか、調理方法がどうだとかいう以前に、世間はこの料理自体に大して関心を抱いていないようだ。主婦の手抜き料理や、給料日前の貧乏メニューだと認識しているらしい。大筋で間違ってはいないと思う。しかし、食材とレシピがシンプルだからと言って、僕の大切な思い出までが益体もなしと取られるのは我慢がならない。たしかに「ジャガイモのピカタ」は手抜き料理の王様であり、弁解の余地すらない貧乏メニューだけれど、「追い剥ぎコロッケ」までが同一視される謂れはないのだ。
 そこで、チープでそれなりなイメージを払拭するために、今回は美味しい「追い剥ぎコロッケ」を食べさせてくれるお店を紹介したい。

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 福岡市中央区警固で、筑紫女学園付属中学・高等学校の真裏といえば、最も賑やかな界隈からは少し離れたあたりだ。住宅街と飲食街が隙間なくひしめきあっていて、そのごちゃごちゃとした中に隠れた名店が多い。名前を『バングラデシュ薬膳カレー ハイダル』という。以前にこのブログでも紹介したことがあるのだけれど、何が悪かったのか「追い剥ぎコロッケ」に次ぐアクセスの少なさで、ハイダルの関係者各位には大変申し訳なく思っていた。例によって無断掲載な上、ハイダルや薬膳カレーなどのキーワードで検索しても、このブログはヒットしないのでご存知ないとは思うけれども。

 コロッケうどんやコロッケ蕎麦を食べたことがある人なら頷けるに違いない。コロッケは意外にも汁物にあう。揚げ物には、カレーライスと相性が良いものと、汁物との相性が良いものの2種類がある。前者の代表がトンカツで、後者の代表がコロッケだ。カレーにあうのは、とろみを帯びたルーの水分が衣に染み込みにくいからで、サクサクとした食感はそのままに、具としての”トンカツのカレーソースがけ”を楽しむことができる。
 コロッケはその逆だ。小判形に丸められたジャガイモに出汁が浸透すると、えもいわれぬ美味しさになる。ただし、この場合だと衣が邪魔だ。早く食べないと、ブヨブヨにふやけて食感が悪くなる。さりとて、早すぎるとタネに染み込まない。コロッケうどんがメジャーになりきれない理由がここにある。
 ところが、ハイダルのコロッケ、つまり「追い剥ぎコロッケ」には衣がない。ルーは日本のカレーとは違い、とろみがなくてサラサラしている。つまり、ここで絶妙な組合わせが誕生するわけだ。具材としてエビを使用しているのもいい。プリプリした食感の塊が、柔らかいジャガイモの中で、ちょっとしたサプライズになっている。淡白な身を噛めば噛むほど旨味が染み出してきて、これが火傷しそうなスパイスともよくあうのだ。

 ぜひ一度、店に足を運んで、「薬膳カレーのコロッケのせ」を味わって欲しい。やみつきになること請け合いだ。ただし、ひとつだけ注意がある。間違っても、「追い剥ぎコロッケのせ」を頼まないように。その名で呼んでくれるのは大変光栄だけれども、スパゲティ・ヴェスヴィオの時と同様に、店主のハイダルさんを困らせることになるだろう。
 

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by TigerSteamer | 2014-01-30 02:00 | 食べ物一般

俺たちに明日はない

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 マクドナルドの「クラシックフライ with チーズ」を食した。例によって例のごとく、あてのないソロツーリングの最中に空腹感を覚えて、何の気なしにだ。新商品だそうだから、定番の何の変哲もないカップラーメンよりは多少ましかもしれない。ハンバーガーは注文せずに、あえてポテトとホットコーヒーだけをオーダーした。おやつのつもりだったけれど思いのほか腹持ちがよくて、結局これが昨日の晩御飯になった。
 店頭の張り紙で知ったのだけれど、マクドナルドでは古き良き日のアメリカをテーマにした新メニューをスタートさせたらしい。それにしては大して話題になっていないのは何故だろう。

 ポテトの上にチーズをかけてフォークで食べる。残念ながら見た目は悪い。見本の写真はここまで酷くはなかったけれど、それは他のメニューにもいえる事だ。チーズの上から、さらにベーコン風味のフリカケを散らす。味は思ったほどには悪くない。
 クラシックとは名ばかりで、何かが変わったようには見えないポテトにフォークを突き刺しては、流れ作業のように口へと運ぶ。なんだか腑に落ちないのだけれど、フライドポテトが旧来の物なのではなくて、フォークを使って食べるスタイルがクラシックなのかもしれない。昔のフライドポテトにはチーズがつきものだったなんて話は聞かないし、容器の違いなんてこともないと思う。
 そのうちに、ハッと気付いた。これってアメリカ映画に出てくる、特に安いわけでもないのであろうレストランで、なにもそこまでと思えるくらい素っ気ないウェイトレスが運んでくる、見るからに美味しくなさそうで健康にも悪そうな料理にそっくりだ。

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 たしかシルベスター・スタローンの『コブラ』だったと思う。スタローン扮する凄腕のトラブルシューターが、山盛りのフレンチフライを注文した連れの女性を諌める場面があった。「健康に悪いから程々にしとけ」とかなんとか。そうか、これが古き良き日のアメリカなのか。そう思って改めて見ると、ファミリーレストランなどのフレンチフライとは比較にならないアメリカ臭を発している。アメリカ人になった気分だ。ハリウッド映画のキャストになったような気さえする。

 モソモソと食べ進めていると、いきなり隣のテーブルについていたカップルの男の方が椅子を蹴倒して立ち上がり、ショットガンを天井めがけてぶっ放して、金を出せと怒鳴るのだ。女の方はその横で、ギャアギャアとヒステリックに何事かまくしたてている。僕は何が起きたか理解できずに、呆然として固まっている間抜けなデブの役だ。銃口を向けられて、ようやくノロノロと手をあげる。真上にでなくてLの字に、肘を90°に曲げてゆっくり腕を動かすのがミソだ。あんぐり開けた口の端からポテトをぶら下げて、ジャケットの胸のあたりにひっくり返したチーズソースがべったりこびりついている。ひょっとしたら、構えた弾みに銃が暴発して、ストーリー第一号の犠牲者になるのかもしれない。

 一人でオートバイを走らせている時、僕が脳裏に思い浮かべているセルフイメージは、オーストラリア映画『マッドマックス』に出てきた白バイ警官、ジム・グースその人だ。




 陽気なタフガイで、職務には忠実だけれど真面目ではない。人好きのするタイプには違いないが、相手によってはやっかまれているのも事実で、とりわけ女性の評価は低そうだ。しかし本人はまったく頓着していない。その我が道を行くスタイルが逆にかっこいい。
 それがあくまで理想であることは、自分が一番よくわかっている。実際の僕はグースより格段に値の下がるショボくれたオッサンだ。昨年末からのツキのなさはコメディ映画的で、もう何年も縁のなかった青切符を2枚立て続けに貰ったり、通勤の途中でオートバイのエンジンが止まったり、シートに鳥の糞がべったりこびりついていたりと散々だった。格好良く犯罪者を取り締まるなんて無理な相談だ。行きずりのハンバーガーショップで、山盛りフレンチフライに顔を埋めて死ぬのがお似合いだ。
 この日は気晴らしのつもりで出かけたのに、無理やり現実に引き戻されたような気がした。給料日前だからといって食事代をケチるんじゃなかった。

 げんなりした気持ちで顔を上げたら、向かいのテーブルについていたカップルの男の方が、慌てて顔を背けたのがわかった。おやっと思った。あきらかに怯えが感じられたからだ。どうあがいてもスタローンにはなれない。なりたいとも思わない。ジム・グースだって言い過ぎには違いないけれど、ひょっとするとマックスやグースと敵対する暴走族のリーダーである、トゥーカッター的な威圧感を醸していたかもしれない。

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 真っ黒なオートバイに跨った黒ずくめのライダーなのだから、本人の知らぬ間にダークな空気を纏っていても不思議はない。アウトローぶるのは好きじゃないし、群れて走るのもごめんだけれど、なぜか悪い気はしなかった。撃たれて死ぬだけのチョイ役よりはずっといい。

 すっかり気を良くして出がけに化粧室へ寄った。出すものを出してから手を洗うために洗面台の鏡を覗き込んだら、そこに正視に耐えないクリーチャーがいた。ヘルメットぐせのついた髪の毛はヒジキのようにペッタリと頭皮にへばりつき、普段は隠しおおせているはずの薄くなった頭頂部が丸見えだ。地肌が脂ぎっているところに、バイザーを開け放っていたせいで目と鼻の周りだけが黒く煤けている。さらに寒さのせいで赤らんでもいるから、何色とは言いがたい爬虫類的な色合いを呈している。口の周りはポテトの油にまみれていて、まばらに生えた無精髭にはチーズソースがこびりついていた。立てたジャケットの襟にはたるんだ頬肉が乗っかっており、ムチウチ治療用のカラーを巻いているよう。おまけにズボンの前が全開だった。

 顔を背けたくなる気持ちもわかる。どうやら僕の初出演作はバイオレンスでもコメディでもなく、怪奇映画だったらしい。どう見ても沼から這い出た小太りの河童だ。口の周りについているのがケチャップでなくて、本当に良かった。

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 だからと言うわけではないけれど、もう金輪際、二度とマクドナルドのクラシックフライは食べない。決してまずくはない。でも、チーズのかかっていないポテトの方が、だんぜん美味しいからだ。
 

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by TigerSteamer | 2014-01-13 12:12 | ツーリング

オートバイ乗りの燃料

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 晴れてはいるものの大変に肌寒い昼下がり、オープンカフェで震えながらスパゲティとミートグラタンを食べる。これは、冬のさなかに完全防寒でオープンカーに乗る好き者と似ているかもしれない。ただ、僕はオープンカーを持ったことがないので何とも言えないけれど、共通点が多いとされるオートバイ乗りとは少し違うような気がする。ニュアンスの上でのことなので、どこがどうとは言いにくいけれど。

 風の噂に冬季限定メニューのミートグラタンが解禁になったと聞いて、さっそく店を訪れた。前に食べたのは春先のことだった。たしか、阿蘇へツーリングに行った帰りだ。凍てつくような夜風に晒されて、ガタガタ震えながら、やっとの思いで店にたどり着いた。入り口のガラス戸を開けると、そこには数人の先客がいた。みな酔客だった。昼間は洒落たレストラン、夜はお酒を出すタイプの店だ。酔っ払い達の楽しげな語らいを遮らぬよう、端っこの席に座った。何か温まる物をとメニューを見回して、そこにミートグラタンを見つけた。
 直感は一口食べて確信に変わった。ガソリンスタンドで売っているのがガソリンだけではないように、エチルアルコールでは焼き付きを起こしてしまう者もいる。トマトの酸味と分厚いチーズのコク、ぎっしり詰まった挽き肉の濃厚な旨味、これは酒飲みを喜ばせる為だけのメニューではない。
 確かに赤ワインにはあうだろう。ビールで乾杯した後で、気のおけない仲間と一つの皿をつつくのにも最適かもしれない。でもそれだけではもったいない。これはオートバイ乗りの燃料だ。こってりとハイカロリーで、内燃機関を内側からブン回してくれる、とびきりオクタン価の高い燃料だ。

 きっとライダー達の冬の定番になるだろう。グッツィ乗りのマスターが、寒いから店の中で食べませんかと誘ってきた。わかっちゃいねえな。いいんだよ、いま暖気の最中なんだから。このくらいの寒さが丁度いいんだ。そういえば、忙しさにかまけて、ここしばらくは乗れていないとボヤいてもいた。作るばっかりじゃなくて、自分でも食べてみるといい。コイツでどこまで走れるか競争してみよう。冬は長いんだから、閉じこもってるとエンジンが腐るぜ。
 

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by tigersteamer | 2013-12-14 23:03 | ツーリング

だご汁

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 昨日の夜は久々に繁華街をブラブラした。その結果、しみじみ実感したことがあるので、ここで声を大にして報告しようと思う。
 北は北海道から南は沖縄、日本全国津々浦々を転々としてきた僕が言うのだから間違いない。 福岡は食べ物が美味しいとか、人情にあついとか、博多っ子は日本人の思い描く男らしさの理想像だなんて話を耳にすることがある。根拠とするところには諸説があるようだけれど、食べ物が美味しいのは福岡に限ったことではないし、博多っ子の男らしさは女々しさの裏返しだ。

 そんなことより、福岡が誇れる事がある。それは女性の美しさだ。福岡の女性は綺麗だ。容貌は全国でもトップレベルに入る。 見目麗しく、芯の強さもあり、なお聡明でエネルギーに溢れている。
 福岡県南部から熊本県一帯で用いられる言葉に「おっぺしゃん」がある。時として心の美しい女性のことを指すこともあるようだが、本来の意味はズバリ、不細工のことだ。ちなみに、おっぺしゃん→おっぺしゃんのだご汁(かなりの不細工)→おっぺしゃんの冷だご(稀にみる不細工)の順で適用する。「だご」というのは団子で、だご汁はありていに言えば「すいとん」のことだ。ほぼ小麦粉のみを使って作られる。月見団子のような真ん丸ではなく、手でこねて平たくまとめるので、形はいびつで均整がとれない。主に味噌仕立ての汁に野菜や根菜と一緒に入れて食す。だご汁の「だご」は滑りを帯びていて弾力があるが、火の通りが悪いとネチャネチャして食感が悪く、冷えると固くなる。これを女性の比喩として用いるのは失礼だと思われるかもしれない。
 全国レベルに照らすなら、おっぺしゃんが平均的な容姿で、だご汁以下は女性がユーモアを交えて謙遜する時に用いる言葉だ。実際には殆どいない。ごくごく稀であり、おっぺしゃんの冷やだこは稀有な存在として讃えられる。決して悪口などではない。そこにいるだけでファンタジーなのだ。それほどに九州地方の女性は美しい。
 これは福岡県だけではなく、福岡近県、ひいては九州一円に言えることだが、対するに男性の美的レベルが著しく低いのも特徴だ。長い歴史の中にあって、男性が強いてきたコンプレックスの裏返しとも言える男性上位社会の裏側で、女性は自らの武器として美しさを磨いてきたのに違いない。

 ・・・とまあ、女性の話は眉に唾して読んでもらって結構だ。僕の主観的な意見で根拠はない。
 話は変わるけれど、だご汁の話をしたら無性に食いたくなった。今年の冬は、オートバイで巡るだご汁の旅なんてのはどうだろうか。あまりに素朴すぎて、だご汁が美味い店というのを聞いたことがないのだけれど、探せばきっと驚くような発見があるに違いない。同様のことは、ご汁(長崎県の郷土料理)や、冷や汁(宮崎県の郷土料理)にも言える。九州全土を駆け回って究極の郷土料理を探し求めるのは楽しいだろう。
 なんて、くだらないことに延々と思いを巡らせながら、結局はいつものようにオートバイと食べ物のことに辿り着く。布団の中で微睡みながら、秋の夜長はしんしんと更けていく。
 

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by tigersteamer | 2013-10-18 01:41 | ツーリング飯

sol(太陽)

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 ずっと前から薄々気付いてはいたけれど、僕は本物のアホらしい。
 3連敗だ。いや、4度目の正直と言うべきか。以前にここに書いた夜明中町のアウローラへ行き、定休日に泣かされて帰る、ということを三たび繰り返した。毎週月曜と金曜が休みだから、他より少し多いのは否めないけれど、それを前もって把握しておきながら、7分の2の確率に引っかかり続けるというのは尋常じゃない。計画性は皆無であり、さんざんカムアウトした方向音痴人見知り思い込みの激しさと合わせて、とてもマトモな社会生活を送れているとは考えられない。自分の両肩を掴んでガクガク揺さぶりながら、「大丈夫か、本当に大丈夫か」と大声で確認したい気持ちで一杯だ。

 そろそろ良い頃合いじゃないかと思ったのだ。初めて店を訪れたのが8月の上旬だ。あれから1ヶ月以上経った。前回はアイスコーヒーだけだったから、本格的なツーリングシーズンを前に、もう一度足を運んでメニューを確認しておくのもいい。パフェを置くべきだとアドバイスしたのを憶えておられるだろうか。蒔いた種が芽を出しているかどうか、確認する意味もあった。
 ツーリングライダーの甘い物好きは、ライダーとしての適性と言ってもいい。言わば体質の問題だ。なにせ、オートバイに乗っている間はアルコールを摂取できないのだから、並の飲んだくれがオートバイを趣味にする筈がない。必然的に下戸で甘党が多くなる。もしくは飲みたいのを必死に我慢して、宿や自宅へ辿り着いた後の一杯を楽しみにオートバイに乗るという、普通に飲むのでは飽き足らなくなった末期的な輩のどちらかだ。

 非日常を満喫するという趣もある。普段は眉間にシワを寄せて仕事に勤しんでいる中年男性が、たまの休みにオートバイで出かけ、身も心も解放される。童心に帰る。どっちが速いかとか、音がどうだとか、スタイルがかっこいいかとか、おおよそ大人気ないことに夢中になる。そうした非日常の最右翼であり、普段の生活から最も遠いところに位置するのがスイーツなのだ。ゆえに多くのツーリングライダーは、非日常の〆にソフトクリームを食す。小洒落たデザートの類ではなくソフトクリームやパフェに偏るのは、働く男の発想の貧困さが由来している。
 考えてみれば、小粋なイタリア人はスーツ姿でジェラートを食べるし、アメリカの治安を守るポリスメンの主食はドーナツだ。それを食べるのに恥や衒いは必要ない。女子供の食べ物と決めつけ、暗黙のうちに恥ずべき行為と見做しているのは日本人だけだ。また、単調になりがちなルーティンに僅かなりと彩りを添えるため、ソフトクリームを活用する人もいる。詳しくは知らないけれど、血糖値をコントロールするのにいいらしいのだ。

 と、そんなことはどうでもいい。意外にもおやじライダーとソフトクリーム、パフェの相性が悪くないのは周知の事実であり、僕が説明するまでもない。肝心なのは、アウローラが大分及び阿蘇方面ツーリングのアタックキャンプとして機能するかどうかだ。日田といえば、近県在住のライダーとしては真っ先に一品街が浮かぶけれど、あそこは待ち合わせ場所であって、腹ごしらえをする場所ではない(関係者が読まないことを祈る)。

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 ランチは週替わりで、AとBの2コース。今回はタイカレーのセットを注文した。まろやかな味わいで、なかなかに美味い。前回の来訪時、奥さんの顔を見た瞬間に、この店は期待がもてると直感した。今回もまた間違いはなかった。
 これは余談だけれど(例によって全編余談なのだけれど)、僕は作る人の顔を見て料理の美味い下手を予想することができる。的中率は100%を誇る。これは生まれついての才能であり、超能力と呼んでも構わないと思っているのだけれど、残念ながら実生活の役に立ったことはない。戯言と読み飛ばしてくれて構わない。また機会があれば記事にすることもあるだろう。

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 ランチセットのデザートとは別に、ケーキのセットを注文した。その結果、しみじみと実感したことがある。梨という果物は実に不思議だ。ケーキと並んで果物が出てきた場合、どちらを先に食べるべきか迷う。甘味がお互いを打ち消し合うからだ。ほとんどの場合はケーキを後に、果物を先に食べるだろう。ところが、この日に食べた梨は負けていなかった。ケーキがぐっと甘さを控えていて、梨は「品種改良の終着点」とまで呼ばれる糖度の高い秋月梨だったのもあるだろうけれど、交互に口にしても遜色ない味わいで、邪魔しないどころか相手を引き立てている感すらある。初めて飲んだ梨ジュースが、これまた秀逸だった。枝から捥いだ瞬間から急速に味が落ちていく梨を、一切の混ぜ物なしで提供する。梨農家でなければ出せないメニューだ。

 僕は己の不見識を恥じた。梨園の高笑いが聞こえそうな気がする。アップルパイのような焼き菓子にしたてるとか、ぐつぐつ煮込んでコンポートにするとか、色々と想像して楽しんでいたのだけれど、そんな考えは消えてなくなった。梨はそのままか、ジュースにして食すべきだ。実際のところ、アウローラではパフェをメニューに加える予定はないそうだ。当たり前だ。大賛成である。パフェのデコレーションに使うだなんて一種の冒涜だ。
 決めた。ややもするとメインになりかねないけれど、今後はここをツーリングの中継地とする。願わくば、夜明けと共に旅路を照らす太陽とならんことを。

※ 勘違いしてしまいそうだけれど、一枚目の画像にある道路に面した扉は裏口なのだそうだ。本当の出入り口は横手にあるので、お間違えなきよう。(間違えた人より)
 

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by tigersteamer | 2013-09-21 23:54 | ツーリング飯

追憶という名の列車

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 今年の夏は珍しく夏バテした。日がな一日だるくて力が出ない。これはおそらく、来るべき日に備えて食事制限を課したせいだ。なにせ今まで経験したことのない症状だったものだから、なにか深刻な病気なのではないかと心底恐れおののいた。今思えば、炭水化物をカットしたのがいけなかったのかもしれない。夏の熱い盛りに一日あたり3リットル強の水を飲んで、大量の汗をかいたのも原因のひとつだったのかも。飲水ダイエットというやつで、健康にも良いのだと聞いたが過ぎたるは及ばざるが如しだ。今の職場は一日中冷房が効いているから、体が冷え過ぎたのだと思う。

 仕事中に頻繁に立ちくらみを起こすに至って、同僚もだいぶ心配してくれたようだ。何か精のつくものを食べに連れて行ってやるとまで言ってくれた。正直何も食べたくはなかったのだけれど、「何でも好きなものを奢ってやる」と言われたら断るわけにもいかない。我ながら現金な上に意地汚い。
 毎年恒例の夏バテ防止食である焼肉や、強壮食の定番である鰻も考えたのだけれど、どちらもいまひとつしっくりこない。僕にとってこの二つは夏バテ予防食であって、治療食ではないからだ。ラムチョップを他人の金で腹一杯食うというアイディアも浮かんだけれど、お気に入りの店は自分一人のためにとっておきたい。それに、なにより重すぎた。朝食の塩鮭ですらゲンナリしてしまうのに、肉の塊が美味しく食べられるはずもない。

 そこでとっさに口にしたのがトンカツだった。焼肉やラムチョップと何が違うのだという疑問は棚上げして欲しい。毒を以って毒を制すというわけではない。口が滑っただけだ。蕎麦かうどんの類にしておけばいいものを、青白い顔でフラフラしながらトンカツとは我ながら狂っている。長年培った貧乏性と厚かましさゆえか、他人から物を奢ってもらえるような千載一遇の局面で、肉料理以外のものをリクエストする選択肢を持ちえないのだ。それに、脂っこさでは勝るとも劣らないけれど、大の好物であるトンカツなら、何とか食べられそうな気がした。
 もっとも専門店のトンカツというのは、聞いて連想するほどギトギトはしていない。どこの店もイヤミなくらい健康志向で、極力脂身を排除した肉を、これまた植物性のアッサリした油で揚げて客に出す。僕のような脂っこいもの好きに言わせればまさに目黒の秋刀魚なのだけれど、エコロジーだのロハスだのがもてはやされる昨今にあって、ヘルシーかそうでないかは、客の入りを左右する重大なセールスポイントなのだろう。
 もしどうしてもダメそうだったら、できるだけ小さな一口カツかなにかを注文すればいい。もしくは一番高価なメニューを選ぶ手もある。肉料理店の常として、値段が張れば張るほど質が向上する代わりに、肉自体の体積は減少していくものだ。下手をすると友情を損なう恐れもあったが、よもや嫌だとは言うまい。しっかり言質は取ってある。
 
 同僚はそれなら良い店を知っていると言う。なんでも、家族でちょくちょく利用する店だそうだ。まさにうってつけだと得意げに胸を張る。
 何がうってつけなんだろう。同僚と言えば今どき珍しい子沢山で、高校球児の長男を筆頭に男ばかりの5人兄弟、それに小山のようにふくよかな奥さんと、老いてなお筋骨逞しい元自衛官の父親、山姥の如き母堂をあわせた9人家族ではなかったか。なんだか急に雲行きが怪しくなってきた。トンカツと言ったのは自分だし、せっかくの厚意でもある。むげに断るのは気がひける。さりとて食欲はない。心なしか胃の痛みが増しているような気さえする。もし食べ切れなかった時のことを考えて、あらかじめ詫びを入れながらその店に向かった。恨めしいのは自分の胃袋だ。いつからこんなに脆弱になったのだろう。少し前までなら、このくらいの無理は平気だったような気がする。それもこれもみんな歳のせいなのかしら。

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 わざわざ連れて行ってくれるくらいだから、それなりのお店なのだろうという僕の予想は、ものの見事に外れた。いや、悪い予感が的中したと言うべきか。たしかに子供連れで来るには良さそうだ。
 トンカツ屋の看板を掲げていなければ、ここを食物屋だと思う客はいまい。どうみても玩具店だ。入り口に描かれている絵は、全て初期シリーズに登場するロボットだ。ということは、30年くらいは経っているはずだ。古ぼけた店構えから、なんとなく味も窺い知ることができる。こんなこと同僚の前では口にできないけれど、きっと安くて量だけは多いのだろう。

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 入り口を入ってすぐのところに、デゴイチの車輪が鎮座していた。以下、熱海の秘宝館もかくやと思えるほどのカオスっぷりだ。
 店主はよほどの多趣味なのに違いないが、ノンセクションに過ぎて正体がしれない。とりあえず鉄道マニアだったのは間違いがなさそうだ。最近は懐かしい学校給食を模した料理店があると聞くけれど、意識してその路線を狙っているとしたら、いささか的を外しているように思う。ジャンルが広すぎて、懐古趣味に走るにしても共感が湧かない。
 
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 料理を載せて窓際を走る汽車を見た瞬間、思わずあっと声をあげそうになった。思い出した。僕は以前にも、この店に来たことがある。たしか小学生の頃だ。毎年お盆になると、久留米にある叔父の家で親戚中が集まった。その帰り・・・・・・いや、進行方向からして、叔父の家に向かう途中だったに違いない。うだるように暑い日だった。
 思い出は堰を切ったように、次から次へと溢れ出した。微速度撮影の開花シーンを見ているように歯止めが効かない。開いては散る花びらを取りこぼさないよう、とっさに両手を開いて受け皿を作った。それでも、指と指の間をすり抜けてしまった断片的なイメージがかなりある。

 うちの車は白いカローラだった。渋滞に巻き込まれて、どういう経緯だか思い出せないけれど、昼食を食べるためにこの店に寄った。父と僕と二人きりだった。生まれたばかりの弟は回想の中には登場しない。母親の姿が見えないのは、一緒に留守番をしているせいかもしれない。
 店内は子供連れの客で満員で、しばらく待たされたような覚えがある。バケツをひっくり返したような混雑ぶりだった。僕は汽車見たさに窓際の席に座りたいとせがんだだろうか。いや違う。言い出せなかったのだ。幼稚なことを言うなと父親に怒られるのが怖くて、とても口にはできなかった。歳をとって今ではすっかり丸くなったけれど、あの頃の父は子供の目から見ても恐ろしかった。横暴で強くて厳しい昭和の父親像そのものだった。父の運転する車に同乗することは、当時の僕にとって苦痛でしかなかった。そもそも、人見知りが激しくて引っ込み思案な僕は、普段は縁遠い親戚と会って時間を共にすること自体が苦手だった。

 渋滞に巻き込まれて仕方なく、と言った。本当にそうだったのだろうか。いかにも子供が喜びそうなこの店は、父の好みとはかけ離れている。食通気どりで偏好が激しく、限られた店を除いては、決して一見の店などには入らなかった。父と二人きりで外食をした記憶は、その時を除いては一度もない。ひょっとすると、最初からここに連れてくる気だったのではないだろうか。我が子の内心を汲んで、そういう事ができる人だったのだろうか。
 思い出せない事が沢山ある。この店だって、あの頃のまんまだなんてことはないだろう。でも、なぜかすべてが懐かしい。あのとき食べたトンカツを、30年後の僕が食べる。窓際で、汽車に一番近い席で。大人にならなければわからないことがある。歳をとるのもいいものだ。

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 厚さのわりに芯まで柔らかいヒレカツには、物足りないくらい歯ごたえがない。どこを食べても均一だ。ヒレ肉とはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、さっぱりしすぎていて瑞々しさに乏しく、肉を噛んでいるという実感はなかった。衣は薄く、脂臭さがない代わりに、サクサクとした食感もない。普段ならば、とても手放しで褒める気にはなれない。これより美味いトンカツは、そこらじゅうにいくらでもある。それでも、気が付くと食べ終えていた。食事が喉を通らなくてゼイゼイ言っていた自分が嘘のようだ。まだ少しフラフラするけれど、胃の腑の底の方に回復の兆しが見えた。同僚はこれを狙って、この店に連れて来てくれたのだろうか。単なる偶然かもしれない。しかし、たしかに効果はあった。

 魔法をかけられたような気分だった。向かいに座った同僚が笑った。僕も笑った。味はさておき、美味かった。これでまた元気に働けそうだ。ありがとう。ご馳走様でした。
 

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by tigersteamer | 2013-09-14 02:38 | 食べ物一般

吉野家の功罪

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 仕事帰りに久々に吉野家へ寄ったら、牛丼(の並だけ)が安くなっていた。しかし、お得感があるかと問われると、さほどでもない。年がら年中、経営が危ぶまれているので、こんなことでは喜べない。苦し紛れのテコ入れを図ったところで、やれ味が落ちただの肉が少なくなっただの陰口を叩かれるのがオチなのだけれど、この会社にとってはどんな批判もカエルの面に小便だ。

 僕は??野家の牛丼が大嫌いだ。いや、正確に言うと大嫌いというわけではない。ただ単に嫌いだというニュアンスでは語り切れないのだ。もとい、決して嫌いではない。そもそも好きとか嫌いとかいう基準は適切ではない。どちらかと言えば好き寄りだか、それは嫌いかと聞かれれば好きだと答える程度であって・・・ええい、大好きだ。吉野家とすき家となか卯と松屋が喧嘩をしたら、どんな原因であれ吉野家の肩をもつが、誰も見ていないところではコッソリ蹴りを入れる。そのくらい大好きだ。
 この大嫌いだけど大好きという、わけのわからない矛盾した感情は、なにも少女漫画チックな乙女心に根ざしているわけではない。四十を過ぎた男が、気色の悪いことこの上ない。いや、どっちみち気色の悪いことには違いないのだけれど、この際だからハッキリ言っておきたい。

 一人暮らしをしていた頃は、毎朝出勤の途中に立ち寄り(夜は毎晩これ)、丼や定食を食べていたこともあった。味は悪くないし、値段もリーズナブルだ。店内の雰囲気も以前ほど(中島みゆきの歌に出てくるような)には悪くない。定期的に品書に加わっては、定着する前に消えていく新メニューも良い味を出しているし、定食メニューは言うに及ばず、サイドメニューの類も好きで毎回食べている。今回、牛丼の並と一緒に初めてカレーを頼んだのだけれど、これはこれで悪くはなかった(特別美味しいとも思わなかったけれど)。

 では何が気に食わないのかと言うと、僕は吉野家の牛丼に対して抵抗があるのだ。牛丼が嫌いなのではない。別にそれが、「吉野家の牛丼」であれば構わない。数年前の狂牛病騒動から長い自粛期間をおいて、メニューに復活すると聞いたときは諸手を上げて喜んだものだ。しかし、すっかり人口に膾炙した吉野家の「牛丼」だけは断じて受け容れがたい。

 初めて口にしたのは中学2年生の時だった。クラスメイトに誘われて初めて吉野家を訪れた。クラブ活動の帰りだったように記憶している。吉野家と言えば、牛丼の並と大盛と特盛、ごぼうサラダとお新香。あとは、味噌汁くらいしか選べなかった頃の話だ。カウンター席しかない狭い店内といい、殆ど選択肢のないメニューといい、明るい配色ながら華やかさに欠ける雰囲気といい、かなり物珍しさを覚えた。子供だけでの外食などしたことのない頃の話だから、少ない小遣いを握りしめて、感慨もひとしおだった。

 さて、肝心要の「牛丼」を目の前にして、僕は正直なんじゃこりゃと思った。たしかに牛丼を頼んだはずなのに、出てきたものは僕の慣れ親しんだ牛丼とはかけ離れたものだったからだ。
 我が家の牛丼は、必ず卵とじの形態をとっていた。世間でいう「他人丼」という奴だ。後に「牛とじ丼」という名を目にすることがあったから、ひょっとすると地方によって呼び名が異なるのかもしれない。ちなみに、うちの田舎で「他人丼」と言えば牛肉ではなくて豚肉が入っているのだけれど、同じ物を「豚玉丼」と呼ぶ場合もあるので、同様に場所によって異なるものを指すのかもしれない。

 おそらく、牛丼と言えば吉野家のものが一般的になる以前は、作る家庭によってまちまちであり、これといって決まったスタイルはなかったのだろうと思う。現に、僕と同年代から年配の人の中には、吉野家の牛丼は世間一般で言う牛丼ではなくて、あくまで吉野家独自のものであると認識している者が少なくない。それに対して、若い年代の指す牛丼は、ずばり吉野家のスタイルである。これは絶対と言っていい。

 なにも「吉野家の牛丼」が嫌いなわけではない。吉野家が世に送り出し、続くすき家やなか卯が世間に定着させてしまった「牛丼」が受け容れがたいのだ。
 これは余談ではあるけれど、僕の父は料理に対して大変厳格(偏屈と言ってもいい)で、考えようによっては手抜き料理の代表格である丼物を毛嫌いしているきらいがあった。だから、丼物は子供達のための料理であり、それは学校が午前中で終わり、なおかつ父が不在の土曜日にのみ作られる特別な味だった。我が家の牛丼とは、決して上等ではないけれど、しっかり味のしみこんだ牛肉にふっくら卵と甘辛いタレが絡まる至福の料理なのだ。

 ママの作った料理が一番なんて力説するのは、四十をすぎた男として気色の悪いことこの上ないが、子供の頃から培われた観念だけは捨てられない。マザコンだと笑わば笑え。どう転んでも吉野家の牛丼を牛丼と言いたくない理由がここにある。
 

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by tigersteamer | 2013-09-05 04:13 | 食べ物一般

日帰りソロツアラーのジレンマ(迷走する不惑編)

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 結果から先に言うと、カップラーメンツーリング(通称 ラーツー)の向こうを張ったフルーツグラノーラツーリング(長いのでFGTと略す)は大失敗に終わった。思い付きを実行に移したことなので、景色の良い場所を見つけるのに手間取ったし、胃の腑を針で突つくような空腹感に苛まれて、なかば投げやりに決めた場所が十年くらい前に物議を醸した、まこと大橋(通称 朧大橋)の袂というのもお粗末だった。食事をするのに手頃な東屋があると思ったら公衆便所だったり、腰を落ち着ける場所を探していて交尾中の猫と鉢合わせたり、そうこうしている間に牛乳はすっかり生温かくなってしまい、グラノーラの舌にまとわりつくような甘みが際立って不快だった。

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 数年前から一部のライダーの間で、ツーリングの密かな楽しみ方として注目され始めたラーツー。旅先で景色の良い場所を見つけ、お湯を沸かして持参したカップラーメンを食すという、極めてシンプルなプランだ。たったそれだけのことで、普段食べているカップラーメンが驚くほど美味しくなるというのは、アウトドアを趣味とする者なら頷けることかもしれない。しかし、登山や行楽の際の食事として選択するのではなく、それ自体を旅の目的に据えてしまうのが、ツーリングライダーの特殊なところだ。以前にも書いたとおり、大事なのは行き帰りの道程であって、目的地は目印の旗竿、食事は旗代りのオートバイツーリングだからこそ成立する。

 確かに面白そうだ。一度くらいは試してみようかと思いつつ、今まで実行に移せなかったのには理由がある。それが日帰りソロツアラーのジレンマだ。せっかく遠方までツーリングに行くのに、食事がカップ麺というのは侘しすぎる。コンビニの軒先で啜るラーメンでも構わないというのは、あくまで結果的にだ。出かける前からカップ麺と決まっていたのでは、さすがにモチベーションが低下する。せめて一泊する時間的な余裕があるならば、昼はカップ麺に留めておいて、夜はキャンプ地で飯盒炊爨とか、ホテルのレストランで豪華な食事とか、地元の居酒屋で土地の料理に舌鼓をうちつつビールで乾杯とか、色々な選択肢が生まれるわけだけれども。
 それに何より、僕はカップ麺が、あまり好きではない。もし今後、日本に食糧難の時代が訪れるとして、何も食べるものがなければ仕方なく口にすることがあるかもしれない。しかし、それはチャップリンよろしく革靴を煮込んで食べた後になるだろう。

 先日、午後から自由に使える時間を得た。久々のオフだ。ここのところ仕事が忙しくて、ゆっくりとオートバイに乗る時間がなかった。あったところで、照りつける夏の日差しに負けてエアコンと仲良しになるのがオチなのだけれど、その日は珍しく穏やかな日和で、ツーリングに出掛ける絶好のチャンスだった。
 朝からバタバタしていたせいで朝食をとる時間がなかった。腹が減って目が回りそうだ。しかし出発前にまとまった物を食べると、途端に汗が吹き出してエアコンのスイッチを入れたくなるに決まっている。眠気にも襲われるだろう。そしたらいつもの自堕落なパターンに嵌るのがオチだ。半日だから、そう遠くへは行けないけれど、どこか見晴らしの良い場所を見つけて、そこで弁当でも広げたらどうだろう。ナイスアイディアに胸を弾ませながら、肝心の弁当をどこから調達するか頭を巡らせていて、ふとラーツーのことを思い出した。

 大自然に囲まれて食べれば、大概の物は美味しく感じられる。ならば、ラーメンにこだわる必要はない。金はないけど時間だけはある学生さんならカップ麺が妥当かもしれないけれど、僕の場合はカップ麺自体が身近な食べ物とは言いがたい。さしずめ、毎朝食べているフルーツグラノーラだろうか。もう飽き飽きなのだけれど、調理の手間がない上に腹持ちが良く、栄養のバランスもとれているので重宝している。そこでFGTとあいなった。給料日前で懐が寂しかったせいもある。

 FGTの失敗要因を考えるに、まず天気の問題が挙がる。その日は暑くはなかったけれど、うすぼんやりとした空模様で湿度が高く、天気が良いとは言えなかった。コンビニで買った牛乳というのも安易に過ぎた。近場で済ませたのも良くない。やはり阿蘇くらいまでは行くべきだ。保冷バッグは必携で、リラックスして食べることを考えれば折り畳みの椅子くらいは持っていったほうがいいかもしれない。

 数々の反省点を踏まえると、次回の開催地はここがいい。

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 画像だけで場所がわかったら凄いぞ
 まあ、それは次回があればの話だけれど。
 

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by tigersteamer | 2013-07-30 11:26 | ツーリング