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蕎麦湯はルチンを飲むものにあらず

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 蕎麦は好きだが、いわゆるツウではない。微妙な味の違いを読み取れるような繊細な舌は持っていない。更科と田舎蕎麦の違いくらいは見ればわかるけれど、その真ん中になると途端に曖昧になる。十割と二八の違いもおぼつかない。時々無性に食べたくなる時があって、ツーリングがてら出かけることはある。ただし、蕎麦という食べ物に品質を求めたことはない。美味しいに越したことはないけれど、どこで食べようが味に大きな差はないと思っていた。ウマいのマズいのと言ったところで、たかが蕎麦だ。

 そもそもツウが偏重する新蕎麦に興味がない。三タテだの、ツユにたっぷり浸すのは無粋だのと、なにかと食べ方に拘るのも煩く感じる。蕎麦湯も好きではない。やれルチンがどうだ、ポリフェノールがどうだと押し付けがましく勧める輩がいるけれど、そんな物の為に蕎麦を食っているわけではない。それに、あれは酷く不味い。いくら栄養価が高いからといって、とても我慢して飲むようなものとは思えない。
 うちの近所に「うどんの小麦冶」という、福岡ではわりと有名なチェーン店がある。僕はそこの蕎麦をいたく気に入っていて、仕事で帰りが遅くなった時などに度々食べていた。ある時、ふとメニューを見たら「当店の蕎麦は蕎麦粉を使用していません」という但し書きが添えてあった。なんでもアレルギー対策らしい。たまげた。蕎麦粉を使っていない蕎麦は果たして蕎麦なのかという疑問以上に、それに気付かない自分の舌に驚いた。

 そんな僕が、昨年の秋頃から蕎麦ばかり食べている。ツーリングに出向いた先で、やたらと手打ち蕎麦の看板をみかけるようになったからだ。ひょっとすると昨今の流行りなのかもしれない。
 きっかけは、紅葉も終わりかけの耶馬渓だった。小洒落れた雰囲気に惹かれて入ったその店は、蕎麦屋というよりはカフェと呼ぶに相応しく、蕎麦粉を使った軽食やケーキメニューが充実していた。入ってすぐの目立つところに、新蕎麦ありますと貼り紙がしてあった。普段なら気にも留めないのだけれど、その時は食べてみようかという気になった。この店は何が美味いという情報を仕込んでいたわけではない。蕎麦が店主のお勧めなら、それを食べるのはやぶさかでない。
 そしたら、その蕎麦が口に合わなかったのだ。いや、合う合わないの話ではなくて、あんなキテレツな物を食べたのは初めてだった。店の奥さんらしき人が「新蕎麦ですから、香りが違うでしょう」などとニコニコしながら言うのだけれど、顔を近づけてみても、それらしき匂いはしない。真っ白な麺はやたらと水っぽく、茹で過ぎじゃないかというくらい柔らかい。蕎麦猪口に半ばほど入ったツユは妙に塩気が薄くて、蕎麦をたぐり終えて蕎麦湯が出てきた頃には、底に薄っすら残るのみになっていた。仕方ないので七味唐辛子で味をつけ、一口飲んだら急にバカバカしくなった。そのまま、狸に化かされたような気分で店を後にした。

 それ以来だ、ツーリングに行く先々で蕎麦を食べるようになったのは。中には悪くないと思えるものもあったけれど、ほとんどが期待はずれだった。僕はどちらかと言えば、黒々とした田舎蕎麦が好きなのだけれど、どこも概ね白っぽくてコシがない。更科信仰とでも呼ぶべきか、白ければ白いほど質が高いとでも思っているかのようだ。
 念のため、グルメサイトでレビューを読んでから出かけるものの、それでも期待をはぐらかされることの方が多かった。コリコリした歯触りと書かれた蕎麦が実際にはテロテロだったり、シコシコのはずがフニョフニョだったり、美食家きどりのレビュアー達がまともに味わっているとは思えなかった。
 おそらく、僕の味覚にも原因があるに違いない。九州は蕎麦文化の根ざした土地ではない。うどん屋やラーメン屋は掃いて捨てるほどあるけれど、蕎麦屋の看板を掲げている店は稀だ。僕にしたところで、蕎麦よりはラーメンを口にすることの方がずっと多い。ラーメンはグルテンを含む小麦食品だから、無意識に比べていたとして、蕎麦にコシがないのは当たり前だ。脂でギトギトしたスープばかり飲んでいれば、日本蕎麦のツユはあっさりしすぎて物足りないと感じるだろう。
 
 食べれば食べるほどわからなくなった。貶すにも根拠が必要だ。今まで蕎麦の良し悪しに頓着してこなかった僕には準拠とするところがない。定年退職後のオヤジが生涯学習と実益を兼ねて始めたような店が多いのも特徴だった。趣味の域を出ていないように思うのだけれど、にわか仕込みの僕には判断がつかない。仮に口に合わないと切って捨てた蕎麦こそが上質だったとしたらどうだろう。コシの強い讃岐うどんと、柔らかいのが身上の博多うどんは、どちらが勝っているというものではない。それが蕎麦にもそっくり当てはまるとしたら。
 ツキのなさには定評のある僕のことだから、訪れる店が軒並みハズレだった可能性は捨てきれない。最後に一軒だけ。とびきり評判のいい蕎麦屋に行ってみることにした。久留米市宮の陣に「一閑人」という店がある。店主がビートルズのファンなのだそうで、勝手に捻ってイマジンとかヒマジンとか読んでしまいそうだけれど、イッカンジンが正しい。数年前にミシュランガイドに掲載された超有名店だ。もしここでダメだったら、僕の味覚は蕎麦を食うに値しないのだと諦めよう。蕎麦好きも返上しよう。これは一種の賭けだ。
 と、決意してから実際に口にするまでに2回、営業時間外と定休日に行く手を阻まれるのだけれど、マンネリもいいところなので省く。

 はたして一閑人の蕎麦は美味かった。なにせコリコリは確かにコリコリで、シコシコには顎を押し返す弾力があった。ツユは濃いめで、ドボンと浸すには辛すぎる。蕎麦の下3分の1くらいをつけるので丁度いい。粋な食べ方として話に聞いていた通りだ。しっかり水気を切ってあるから、食べ進めても薄くならないのにも驚いた。最後は蕎麦猪口の底に2センチほど残った。非常にもったいなく感じたので、なんのためらいもなく蕎麦湯で割って飲んだ。そしてこれが美味かったのだ。蕎麦湯で薄く延ばすことによって、逆にツユの粗さが際立ったりすることが多々あるのだけれど、一閑人のものは実に肌理が細かく、さらに溶け残ったワサビが良いアクセントになっていた。蕎麦湯を美味いと感じたのは生まれて初めてだ。思わずおかわりした。

 今までの僕の蕎麦観は何もかもが間違っていた。未だに良し悪しはわかりかねるけれど、誤解だらけの中にも一つだけ正しかったと断言できる事がある。蕎麦湯というのは、栄養をたっぷり含んでいるから飲むものではない。緻密な配合の元に完成したツユを残すのがもったいないから、最後の一滴まで味わうために蕎麦湯で割って飲むのだ。僕ごときが言うのはおこがましいけれど、美味い蕎麦屋の蕎麦湯は美味いのだ。
 
店舗情報
蕎麦処一閑人
福岡県久留米市宮ノ陣町五郎丸1577−7

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by TigerSteamer | 2015-03-02 05:15 | 食べ物一般

五臓六腑に沁み渡る

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 検診の絶食明けは蕎麦、蕎麦切りに限る。病院の食堂などで手っ取り早く済ませてもいいが、キリキリ痛む空きっ腹を抱えてお気に入りの蕎麦屋まで足を延ばした日には、一日じゅうニヤニヤしどおしだ。

 酒飲みがよく、五臓六腑に沁みわたる、なんてことを言う。この「沁みわたる」は、「おいしい」とか「ありがたい」などという気持ちが沁みるのであって、口から入った物が各消化器官を経て全身に行き渡るという意味ではない。さらに言えば、口から入るものである必要もない。誰かの施した小さな親切が沁み渡ることだってある。
 しかし、「五臓六腑」を持ち出されると、なんとなく飲食物以外には使い辛く、さらに沁みわたる速度(なんせ酒飲みは口にするや否やコレをつかうから)からいって液体が最適で、そこまでの体感を伴う飲み物はアルコールしかない。よって世間では、この言葉を飲酒の枕詞のように使う。

 ただし、空腹時の蕎麦切りくらい、五臓六腑に沁みわたる食べ物はない。
 まずは薬味の山葵が、干上がった口を潤す。鼻からツンと抜ける刺激が味蕾を刺激し、瞬く間に機能を回復させるので、「空腹のあまり最初の数口は何を食っていたのかわからない」などということがない。ざらざらした蕎麦の喉越しを際立たせながら共に食道を下り、最後は胃の腑に収まって、体の中心から全身を温める。

 蕎麦の沁みようはアルコールのそれとニュアンスが違う。ストンと体の底に下りていって、あっという間に全身を駆け巡る酒類とは違って、いったん胃袋に収まった上でジュワ~っと溶け出す。一口一口が軽いから、幸福感が長持ちする。ざる一枚を食べ切った時点で、まだ一口目の幸せが尾を引いている。食後に蕎麦湯を飲みながら、ゆるゆると沁み始めた蕎麦のありがたさを噛みしめる。ここにきてようやく、くううっと息を漏らしつつ、「五臓六腑に沁み渡る」が口をついて出る。

 ああ、蕎麦が食いたい。夜中にこんなものを書くんじゃなかった。
 

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by tigersteamer | 2012-07-04 03:08 | 食べ物一般