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ソロツアラー 自分の説明書

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 先日、車の定期メンテナンスの為に、カーディーラーを訪れた時のことだ。退屈しのぎにショールームに備え付けてあるマガジンラックを漁っていたところ、こんな本を見つけた。
 Jamais Jamais著『血液型別 自分の説明書』そのB型。 懐かしい、流行ったのは10年くらい前だろうか。よくある血液型占いの一種なのだけれど、読んだ者が当てはまるかどうかに一喜一憂するのではなくて、相手に読ませて自分の性格をよく知ってもらうといった趣旨の内容だった。興味がないわけではないのだけれど、皆が騒いでいた当時は見向きもしなかった。とりあえず手は出さずにポーカーフェイスを押し通し、ブームが一過したのちにコッソリ試すのが僕の性だ(憶えていればだけれど)。ひょっとしたらそれもB型の特徴なのかもしれない。

 そういや、こんな本があったあった。ドキドキを押し殺し、表面上は冷静を装って、なにげなく感をアピールしながらページをめくる。誰も気にしてないのはわかっているけれど、念のためだ。血液型占いなんぞに興味がある器の小さい男だと思われるのは恥ずかしい。
 しかし、徐々に目が離せなくなり、気がつくと食い入るように文字を追っていた。

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◻︎ 根暗だ。
◻︎ 集団行動の中で1人だけフラフラ散歩したりする。
◻︎ 時には人生まで賭ける。

 お前、ひょっとして僕の友達かなんかか・・・と疑いたくなるくらい、身につまされることが書いてあった。たしかに根暗だ。根暗じゃないとソロツアラーなんか名乗れない。フラフラ散歩することも多い。それが高じて迷子になることがある。むしろ、迷子になったふりをして単独行動をとる確信犯だ。人生まで賭けるは大袈裟だけれど、後から賭かっている物の大きさに気付くことはある・・・負けっぱなしだけれど。

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◻︎ 気になると即行動。
◻︎ その時の行動力はすさまじい。
◻︎ だけど、興味ないとどーでもいい。
◻︎ 口べた。

 その通り! 世渡り下手で墓穴を掘ることの多い「思い立ったが吉日男」の理解者が、こんなところにいるとは思わなかった。名前をなんと読めばいいのかわからないけど、コイツとなら旨い酒が飲めそうな気がする。

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◻︎ でも1人が好き。
◻︎ でもさみしがり屋。
◻︎ 割と小心。
◻︎ 時には気分で小心をも乗り越える。

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◻︎ 人に全てを明かさないことを、こっそりと楽しむ。
◻︎ 突然、何かしでかす。
◻︎ 自分論がめじろおし。

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◻︎ 会話に主語がない。
◻︎ お金の使い方が、なんかどっか人と違う。
◻︎ 人の顔、名前、あんまり覚えてない。というか覚えない最初から。

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◻︎ 地図なくてもおおよそ分かってれば、まぁ辿りつける。カン? 方角は「あのへん」。
◻︎ でも知らぬ土地を1人で散策してると迷子になる。「あれ? どっちから来たっけ今?」。
◻︎ だって道なんか見てないし、自分ワールド全開だから。

 このへんで、ふと気がついた。B型の説明書とは書いてあるけれど、ソロツアラーの素養にも丸々当てはまるような気がする。僕がマスツーリングに馴染めなかった原因がすべて書き連ねてある。ということは、ソロ志向のツーリングライダーは全員B型なのではないだろうか。たとえば僕の憧れてやまない仙人だ。血液型を尋ねたことはないけれど、あの人なんかはまさしくB型の典型だ。間違いない。すべてのB型ツーリングライダーは、ソロツアラーになるべくしてなるのに違いない。
 そう思うと、矢も楯もたまらなかった。携帯電話を取り出すと、住所録を呼び出して仙人の名前をフリックした。特に理由はないのだけれど、一刻も早く確認しなければならないと思った。
 幸いにも(?)電話はすぐに繋がった。

「もしもし・・・虎くんか、なんかよう?」
「あのですね、あの、えっと」
「今忙しいんだけど」
「すぐに済みますから。血液型、何型ですか?」
「なんで?」
「いや、別になんでってこともないんですけど」
「・・・・・・」
「・・・だめ、ですか」
「ABだよ」
「やっぱり? あっ、えっ、ええええ・・・嘘でしょう?」
「ブツッ ツーッ ツーッ ツーッ

 てっきり僕の同類だと思っていたのに、なんだか信じていた人に裏切られたような気がした。僕の中の仙人に対する感情、信頼とか、尊敬とか、同情とか、憐愍とか、ありとあらゆるものが、潮が引くように薄れていくのがわかった。
 ついでに、『AB型 自分の説明書』を手にとって、パラパラとめくってみた。

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◻︎ つかみどころがない。つかめないよ誰にも。
◻︎ だって自分でもつかめないから。
◻︎ あえてアピールもしない。めんどーだし。
◻︎ どうせ分かってくんないモン。

 そう言われれば、確かにそうかもしれない。しかし、もはやどうでもいい。しょせん彼はソロツアラーではなかったのだ。

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by TigerSteamer | 2014-12-23 20:56 |

ひとり焼肉リーディング

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作品名小暮写眞館
作者名宮部みゆき
評価(星4つ)
 宮部みゆきが好きだ、なんてことを声を大にして言うと、大抵の人からは気の抜けたような返事が返ってくる。相手が読書好きであればなおさらだ。鉄板レースを前にして、一番人気の単勝に大金をぶち込むようなもので、醍醐味も何もあったものではない。

 一人暮らしをしていた頃に身について、未だに抜けきらない悪癖に、読書し「ながら御飯」がある。何かを読みながらでないと飯が食えない。これが朝食のトーストを齧りながら新聞を読むといった程度なら問題はないが、一人で外食をする際などは読む物のチョイスに大変苦労する。本を読み「ながら御飯」を食べるというのは、テレビを見ながらとか音楽を聴きながらに比べると、かなり文化的だと思うのだけれど、はたから見ると大変様子が悪いらしい。餃子の王将のカウンターで見ず知らずの酔っ払いから、米粒に宿る三人の神様について、こんこんと説教をされたこともあった。

 活字でさえあれば、たとえば御品書きでも、醤油の容器の裏にある成分表でも構わない。しかし、あまり褒められたことではないからこそ、最低限の嗜みだけは身につけるべきだ。肴がなければ手の塩を舐めてでもというのは、酒飲みの台詞としては痛快ではあるけれど、実際を目にするとあまり品が良いものではない。酔えれば何でもいいなんていうのは、アルコール中毒患者の言い草だ。肴には徹底して拘るべきで、むしろ両者を主体としたマルチタスクを行うのが正しい。旨いものを食うと本が読みたくなり、面白い本を読むと小腹が空くといった域にまで昇華しない限りは嗜みとは言えない。飲酒や喫煙でも同じことだ。ちょっとしたルールと制限を課し、あれやこれやと試行錯誤をするだけで、どこに出しても恥ずかしくない大人の嗜好になる。
 
 カバンの中に、常に外食用の本を一冊忍ばせておく。書籍の体裁であればなんでもいいというわけではない。食事には、それに適した本というものがある。箸を持つ手が留守になるほど重いものでは駄目で、もちろんその逆も然りだ。逆に言えば、食事の楽しみを邪魔しない程度に、あっさり読めるものでなくてはならない。いい塩梅の読み物というと、最近はやりのまとめサイトなどが最適だと思うのだけれど、スマホし「ながら御飯」は、読書しながらに輪をかけて様子が悪い。専門書や雑誌のコラム、エッセイ集などが手頃だ。普段の読書でこれぞという本を見つけたら、読むのを中断して食事用にとっておくのがいい。読書の志向は人それぞれなので一概には言えないけれど、作家によっても向き不向きがある。僕にとって、宮部みゆきは「ながらご飯」には適さない作家の筆頭だ。食事が手につかなくなること請け合いで、気が付けば料理は冷え切って、そろそろ閉店の時間などということになりかねない。

 ただし、焼肉に限ってはその限りではない。絶妙に噛み合って、最適のパートナーとなりうる。これに気付いたのは、長年にわたる僕の研鑽の賜物であり、読書し「ながら御飯」が紳士の嗜みである証拠だと胸を張って言える。
 そもそも焼肉というものは、食べるの前段階として焼く作業を行わなくてはならない。「ながら御飯」だと、これが実に難しい。本に気をとられている間に特上ロースが真っ黒焦げなんてことは序の口で、脂の多いホルモン類などは、気を抜くと炎の柱が立ったりもする。ゴウゴウと燃え盛るコンロを前に、泡を食って鎮火作業をせねばならず、読書の内容がすっかり消し飛んでしまうのだ。どこまで読んだかも憶えていないので、仕方なくページの最初に戻って読み返すことになる。最近の焼肉屋のコンロはトロ火の調節がしにくいというのもあって、これを何度も繰り返すと、終いには食い終えてから読もうかという気になる。ある意味、それこそが正解ではあるのだけれど、「ながら御飯」を嗜む身としては、かえって闘志が湧くのだ。

 宮部みゆきの凄さは、同じセンテンスを何度読み返しても、まったく苦にならないところにある。名文というのではないけれど、堅苦しさがなく、リズム感があって、七面倒な表現を用いない。内容がすんなり頭に入り、なおかつ記憶に留まりやすいから、どこまで読んだかを忘れても、読んだ内容まで霞むことはない。それだけではない、一つの文章に含まれている情報量が多くもなく少なくもなく、焼肉を焼いて口に運ぶペースと絶妙にマッチする。僕はどちらかといえば速読派で、じっくりと読み進めることをしないタチだから、なおさら新鮮な驚きを感じる。何度も読み返すことを余儀なくされているうちに、1度目には気付かなかった発見をすることがままある。行間に秘められた登場人物の心理に、だけではない。てにをはの使い方、読点の打ち方ひとつに深い感銘を受けることがある。
 読書し「ながら御飯」は満腹と共に終わる。せいぜいが2時間ほどだ。網の上で丸腸を転がしながらページを繰るひとときに無常の喜びを感じる。

 宮部みゆきは一人焼肉に耐えうる作家だ。これは最大級の賛辞だといっても過言ではない。しかし、これだけ高く評価し、大ファンであることを公言していながら、未だに全作品を読み切ったわけではないのが悲しいところだ。なぜなら、僕が薄給にあえぐメタボリック・サラリーマンであり、外で焼肉を食う機会など月に一度あればいい方だからだ。長期にわたるダイエット中であり、意識して焼肉屋を遠ざけていることもある。宮部みゆきが、その時のために温存しておかなければならない稀代の作家であるがゆえに、僕の読書は遅々として進まないのだ。
 

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by TigerSteamer | 2014-11-07 00:46 |

皆が青春のファミコン通信

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作品名1989年のファミコン通信
作者名田原誠司
 僕の兄貴分であり、元ファミ通副編集長にしてカードヒーロー名誉師範の田原誠司氏が本を出す。ファミ通webの読み物が一冊の本になると言われてから、待てど暮らせど音沙汰がないまま早数年。もう出ないものだと諦めて、書籍化のことは尋ねまいと気を遣っていたら、いつの間にか兄貴との付き合いも疎遠になっていた。「1989年のファミコン通信」はエンターブレインから8月8日発売だ。発売日が決まり、立派な装丁ができてもなお一抹の不安を感じる。このまま大事なく書店に並ぶことを切に願う。

 もうだいぶ前から「ファミコン通信血風録」を書くべきだと強く勧めてきた。子供の頃、僕の心を鷲掴みにした(ゲームの情報誌でありながら、ゲーム本体よりも面白かった)ファミコン通信と個性豊かな編集者達が、ゲーム業界と出版界を股に掛けて大暴れする群像劇だ。
 下敷きとしてイメージしたのは椎名誠の「本の雑誌血風録」だった。いや、登場人物のキャラの立ち具合からすると、司馬遼太郎の「新撰組血風録」に近いかもしれない。本の雑誌の関係者については事前に何の知識もないけれど、土方歳三や近藤勇のキャラクターを知っているのと同じくらい、浜村通信やスタパ斉藤の名前にも親しんでいるからだ。そして、田原誠司という人物を知れば知るほど、(ファミコン通信の関係者ではない僕が言うのもなんだが)それを書くのにうってつけの人物だと感じるに至った。
 しかし兄貴にとってみれば、ファミコン通信は自分を育ててくれた愛着のある古巣であり、それをエンターテイメントの題材として書き立てることは、仁義にもとる行為だと感じているようだった。

 ウェブ掲載時の「ファミコン通信1988」は、そういう意味では「本の雑記血風録」などとは違い、物語性を排して当時のゲーム業界を淡々と書き綴った内容だった。しかし、その実直な(やや偏屈な)文章から、かえって当時の情景をイメージしやすく、そこから面白い雑誌を作ろうという編集者たちの熱意が伝わってきた。
 本の雑誌が創刊した1976年から、干支が一回りした1989年は、昭和天皇が崩御(お隠れになった、というらしい。冒頭より)した年頭から粛々とした空気の流れた年でもあり、熱にうかされたようなバブル景気の真っ只中でもあった。文字通り一つの時代が終わった年であると同時に、今に至るまで続く絶頂からの転落が始まった年でもある。
 80年代の末にゲーマーだった方も、そうでない方も、ぜひ手にとって欲しい一冊だ。ちなみに、僕の1989年は日本史の追試から始まった。その結果、僕は2年まで通った高校をクビになり、人生において長い影を落とす忸怩たる迷走期間が始まるのだけれど、それはまた別のお話。

 まだ読んでいない(8月4日現在)ので何とも言えないが、独断と偏見と身びいきで★5つにしておこうと思う。実は、印税が入ったら寿司を奢ってくれる約束になっているのだ。カウンターのお店か回るお寿司か、大トロの握りかカッパ巻きかは、皆さんのお心一つにかかっている。定価が880円で、その一割が印税として戻ってくるとすると、僕が満腹になるには100冊くらい売れる必要がある。いや、あくまで回るお寿司の場合ならだけれど。
 

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by tigersteamer | 2013-08-04 03:03 |

屈折した愛情

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作品名喰いたい放題
作者名色川武大
評価(星3つ)
 阿佐田哲也の訃報を聞いたのは、高校三年の春だった。二年間通った高校をクビになり、新たな地で、新たな生活を始めた矢先だった。「色川武大さんが亡くなったらしいよ」と、教えてくれたのは母だったと思う。何の感慨も抱かなかった。新しい環境に慣れるのに精一杯で、それどころではなかったのだ。返事をしたかどうかも記憶にない。なぜなら、僕は不覚にも、その名が阿佐田哲也と同一人物を指すのだとは知らずにいたからだ。
 阿佐田哲也は、漫画と児童文学しか知らなかった僕に、初めて大人の世界を垣間見せてくれた作家だ。同時に麻雀の師匠でもある(だから弱いのかもしれない)。一方で、色川武大の名前も知ってはいた。著書も、直木賞受賞作を中心に、数冊読んでいた。割と好きな文体だった。にもかかわらず、僕はこの作家の書くものを良いとは認めたくなかった。

 晩年の作品に「喰いたい放題」というエッセイがある。もうすっかり脂っこさが抜けてしまった頃のものだ。いわゆるグルメ本なのだけれど、他の作家のそれと比べて特に変わっているのは、殆どが作者の好き嫌いに終始している点だ。どこそこの何が旨いというのではなく、これはこうやって食すと美味だというのでもなく、これは好きこれは嫌いというレベルで終わっている。それだけならいいのだけれど、その食の好みが、僕の嗜好と悉く逆を行っている。僕のあまり好きでないソラマメを「これさえあれば他はいらぬ」と言い、女子供の食い物だと馬鹿にしていた「もんじゃ」に一考説たれ、とどのつまりは「蕎麦はうどん粉に限る」と言い切る。蕎麦っ喰いの僕としては憤懣やるかたなしだ。うどん粉が好きなら黙ってうどんを食えばいいのだ。なぜそこで蕎麦を引き合いに出す。

 どんなに尊敬してやまない相手であれ、食の好みがあわないと心中は穏やかでない。一緒に飯を食いに行ったとして、同じものを食べて同じ感慨を抱けぬとあれば、肩透かしを食ったような気分に陥るだろう。それが一つや二つではなく、食全体に及ぶのだから始末に悪い。なにやら、鼻で嗤われているような気すらする。

 ときどき、ふと思い出して阿佐田哲也の本を引っ張り出し、読んでみようかなという気分になる。我ながら馬鹿馬鹿しいとは思うけれど、決して色川武大ではなく、阿佐田哲也だ。それは、僕が一番尊敬してやまない作家だから。色川武大を敬遠するのは、色川武大を愛してやまないからだ。わかるかな、わかんねえだろうな。
 

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by tigersteamer | 2013-02-22 16:25 |