カテゴリ:食べ物一般( 55 )

おもいでカフェ

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 南阿蘇村の「みそらや」は和菓子とコーヒーのお店だ。ただし軽食の類はない。人伝に評判を聞いた時にイメージしたのとは少し違っていた。阿蘇外輪山の麓にあって、長閑で静謐な空気に包まれてはいるけれど、人里離れたというほどの山奥ではなかった。

 生活音を完全に隔てていて、時の流れる速度さえ緩やかな気がする。思索に向いている。本でも読みながら、ゆっくりと寛ぐためのお店だ。日帰りツーリングの途中で立ち寄って、時間を気にしながら利用するのはもったいないかもしれない。
 庭、建物、調度品や小物、接客に至るまで、すべてにこだわりが注ぎ込まれている。手作りの和菓子は意匠と呼ぶにふさわしい。小さくて繊細で、眺めているだけで楽しくなる。南阿蘇の土産にすれば喜ばれそうだ。店主は古いBMWのオーナーだそうだけれど、表立ってそれと分かるところはない。ただし、店内をよく見渡せば、ところどころにヒントが落ちている。
 フレンチプレスのポットから、空のカップにコーヒーが注がれると、気忙しい日常の合間に紛れ込んでいた忘れがたい出来事が、濃い香りと色合いをもってじんわりと蘇ってくるような気がした。

 ぶさいく餅の婆様が亡くなったのは一昨年の夏。てっきり九十路を越えたあたりと思っていたけれど、まだ八十五だった。風呂場で滑って足の骨を折ったのが、そこから遡ること半年ほど前だそうだ。
 畑に出ずっぱりな嫁に代わって惣菜屋の店頭に立ち、丸眼鏡を押し上げながらチマチマと釣銭を数えていた。腰こそ曲がってはいるものの、声に張りがあって足腰もシャンとしていた。そんな彼女が、入院してからは坂道を転がり落ちるように体力が落ちて、ひと月も経たないうちにベッドで寝たきりの生活になったのだそうだ。百姓仕事の片手間なので切実さはないものの、町ぐるみの思いやりで永らえていたような店だから、何かのきっかけで食べられなくなる事があるかもしれないとは思っていた。しかし、こんな終わり方は予想だにしていなかった。

 ぶさいく餅のファンは、残された家族が思っていたよりもずっと多かったらしい。周囲の要望に応えるかたちで再び売り始めたものの、長男のお嫁さんが作ったのは単なる甘くない蓬餅で、婆様のものとはどこか違っていた。
「こげなことになるとなら、婆ちゃんが元気なうちに、よおと教わっとけばよかったち思います」
 材料は同じはずだとお嫁さんは言う。たしかに、見た目は同じに見える。皮の厚さも小豆の潰れ具合も記憶している通りで、一生懸命似せようと試行錯誤したあとがあった。それだけを食べるなら決して悪いできではなかった。おそらく客の求めるところが大きすぎたのだ。
 なにか手がかりになればと記憶の襞を探ってみるものの、そもそも蓬餅のレシピすら知らない僕に教えてあげられることなどない。できるのは婆様の思い出話をすることくらいだ。
 暇もないし、もう店は閉めようかと思います。お嫁さんは少し寂しそうに笑った。おばあちゃんのヨモギ餅、画用紙とボール紙で作った手書きの札が、寄る辺なく立てかけてあった。

 婆様の店も、みそらやと同じような立地だけれど、高速道路が近くを通っていて、お世辞にも静かとは言いがたかった。野菜の無人販売所に毛が生えたような荒ら家で、吹きっさらしの店の前には、丸椅子が数脚置いてあった。いつも同じ年恰好の年寄りが長居しては、婆様と世間話に花を咲かせていた。
 ちっとも甘くなくてパサパサしているくせに、コーヒーとの相性が抜群に良い。ふたつを合わせると確かに甘い、不思議なバランスでできていた。ツーリングの行きがけに4つ5つと買い込んで、景色の良い場所で食べるのが好きだった。缶コーヒーの味を何倍にも引き立ててくれた。
 しばらくは店を休みがちにしていたので、おかしいとは思っていた。再開してからも、そこに婆様の姿はなく、ぶさいく餅が店先に並ぶこともなかった。顛末を知ったのは何ヶ月も経ってからだ。

 まるで似ていないのに、なぜか懐かしい。みそらやでコーヒーを飲みながら、脳裏にありありと浮かんだのは、農道の側で陽炎のように揺らぐ婆様の店の佇まいだった。日がな一日つけっぱなしだったAMラジオの、雑音混じりの音声が聞こえたような気がした。

関連:黒死病
 
店舗情報
みそらや
熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陰3978-1

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by TigerSteamer | 2015-03-25 14:49 | 食べ物一般

蕎麦湯はルチンを飲むものにあらず

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 蕎麦は好きだが、いわゆるツウではない。微妙な味の違いを読み取れるような繊細な舌は持っていない。更科と田舎蕎麦の違いくらいは見ればわかるけれど、その真ん中になると途端に曖昧になる。十割と二八の違いもおぼつかない。時々無性に食べたくなる時があって、ツーリングがてら出かけることはある。ただし、蕎麦という食べ物に品質を求めたことはない。美味しいに越したことはないけれど、どこで食べようが味に大きな差はないと思っていた。ウマいのマズいのと言ったところで、たかが蕎麦だ。

 そもそもツウが偏重する新蕎麦に興味がない。三タテだの、ツユにたっぷり浸すのは無粋だのと、なにかと食べ方に拘るのも煩く感じる。蕎麦湯も好きではない。やれルチンがどうだ、ポリフェノールがどうだと押し付けがましく勧める輩がいるけれど、そんな物の為に蕎麦を食っているわけではない。それに、あれは酷く不味い。いくら栄養価が高いからといって、とても我慢して飲むようなものとは思えない。
 うちの近所に「うどんの小麦冶」という、福岡ではわりと有名なチェーン店がある。僕はそこの蕎麦をいたく気に入っていて、仕事で帰りが遅くなった時などに度々食べていた。ある時、ふとメニューを見たら「当店の蕎麦は蕎麦粉を使用していません」という但し書きが添えてあった。なんでもアレルギー対策らしい。たまげた。蕎麦粉を使っていない蕎麦は果たして蕎麦なのかという疑問以上に、それに気付かない自分の舌に驚いた。

 そんな僕が、昨年の秋頃から蕎麦ばかり食べている。ツーリングに出向いた先で、やたらと手打ち蕎麦の看板をみかけるようになったからだ。ひょっとすると昨今の流行りなのかもしれない。
 きっかけは、紅葉も終わりかけの耶馬渓だった。小洒落れた雰囲気に惹かれて入ったその店は、蕎麦屋というよりはカフェと呼ぶに相応しく、蕎麦粉を使った軽食やケーキメニューが充実していた。入ってすぐの目立つところに、新蕎麦ありますと貼り紙がしてあった。普段なら気にも留めないのだけれど、その時は食べてみようかという気になった。この店は何が美味いという情報を仕込んでいたわけではない。蕎麦が店主のお勧めなら、それを食べるのはやぶさかでない。
 そしたら、その蕎麦が口に合わなかったのだ。いや、合う合わないの話ではなくて、あんなキテレツな物を食べたのは初めてだった。店の奥さんらしき人が「新蕎麦ですから、香りが違うでしょう」などとニコニコしながら言うのだけれど、顔を近づけてみても、それらしき匂いはしない。真っ白な麺はやたらと水っぽく、茹で過ぎじゃないかというくらい柔らかい。蕎麦猪口に半ばほど入ったツユは妙に塩気が薄くて、蕎麦をたぐり終えて蕎麦湯が出てきた頃には、底に薄っすら残るのみになっていた。仕方ないので七味唐辛子で味をつけ、一口飲んだら急にバカバカしくなった。そのまま、狸に化かされたような気分で店を後にした。

 それ以来だ、ツーリングに行く先々で蕎麦を食べるようになったのは。中には悪くないと思えるものもあったけれど、ほとんどが期待はずれだった。僕はどちらかと言えば、黒々とした田舎蕎麦が好きなのだけれど、どこも概ね白っぽくてコシがない。更科信仰とでも呼ぶべきか、白ければ白いほど質が高いとでも思っているかのようだ。
 念のため、グルメサイトでレビューを読んでから出かけるものの、それでも期待をはぐらかされることの方が多かった。コリコリした歯触りと書かれた蕎麦が実際にはテロテロだったり、シコシコのはずがフニョフニョだったり、美食家きどりのレビュアー達がまともに味わっているとは思えなかった。
 おそらく、僕の味覚にも原因があるに違いない。九州は蕎麦文化の根ざした土地ではない。うどん屋やラーメン屋は掃いて捨てるほどあるけれど、蕎麦屋の看板を掲げている店は稀だ。僕にしたところで、蕎麦よりはラーメンを口にすることの方がずっと多い。ラーメンはグルテンを含む小麦食品だから、無意識に比べていたとして、蕎麦にコシがないのは当たり前だ。脂でギトギトしたスープばかり飲んでいれば、日本蕎麦のツユはあっさりしすぎて物足りないと感じるだろう。
 
 食べれば食べるほどわからなくなった。貶すにも根拠が必要だ。今まで蕎麦の良し悪しに頓着してこなかった僕には準拠とするところがない。定年退職後のオヤジが生涯学習と実益を兼ねて始めたような店が多いのも特徴だった。趣味の域を出ていないように思うのだけれど、にわか仕込みの僕には判断がつかない。仮に口に合わないと切って捨てた蕎麦こそが上質だったとしたらどうだろう。コシの強い讃岐うどんと、柔らかいのが身上の博多うどんは、どちらが勝っているというものではない。それが蕎麦にもそっくり当てはまるとしたら。
 ツキのなさには定評のある僕のことだから、訪れる店が軒並みハズレだった可能性は捨てきれない。最後に一軒だけ。とびきり評判のいい蕎麦屋に行ってみることにした。久留米市宮の陣に「一閑人」という店がある。店主がビートルズのファンなのだそうで、勝手に捻ってイマジンとかヒマジンとか読んでしまいそうだけれど、イッカンジンが正しい。数年前にミシュランガイドに掲載された超有名店だ。もしここでダメだったら、僕の味覚は蕎麦を食うに値しないのだと諦めよう。蕎麦好きも返上しよう。これは一種の賭けだ。
 と、決意してから実際に口にするまでに2回、営業時間外と定休日に行く手を阻まれるのだけれど、マンネリもいいところなので省く。

 はたして一閑人の蕎麦は美味かった。なにせコリコリは確かにコリコリで、シコシコには顎を押し返す弾力があった。ツユは濃いめで、ドボンと浸すには辛すぎる。蕎麦の下3分の1くらいをつけるので丁度いい。粋な食べ方として話に聞いていた通りだ。しっかり水気を切ってあるから、食べ進めても薄くならないのにも驚いた。最後は蕎麦猪口の底に2センチほど残った。非常にもったいなく感じたので、なんのためらいもなく蕎麦湯で割って飲んだ。そしてこれが美味かったのだ。蕎麦湯で薄く延ばすことによって、逆にツユの粗さが際立ったりすることが多々あるのだけれど、一閑人のものは実に肌理が細かく、さらに溶け残ったワサビが良いアクセントになっていた。蕎麦湯を美味いと感じたのは生まれて初めてだ。思わずおかわりした。

 今までの僕の蕎麦観は何もかもが間違っていた。未だに良し悪しはわかりかねるけれど、誤解だらけの中にも一つだけ正しかったと断言できる事がある。蕎麦湯というのは、栄養をたっぷり含んでいるから飲むものではない。緻密な配合の元に完成したツユを残すのがもったいないから、最後の一滴まで味わうために蕎麦湯で割って飲むのだ。僕ごときが言うのはおこがましいけれど、美味い蕎麦屋の蕎麦湯は美味いのだ。
 
店舗情報
蕎麦処一閑人
福岡県久留米市宮ノ陣町五郎丸1577−7

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by TigerSteamer | 2015-03-02 05:15 | 食べ物一般

ノーミノールの花

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関連:あんぱん遥かなり

 ポケットの中で温め続けた石を陽の光にかざした時、思っていたよりもずっと美しくなくて唖然としてしまう事がある。素晴らしいアイディアだと思った。僕の頭の中にある時点では、ゴッホの「ひまわり」のようになるはずだった。
 花の部分が「カフェ食堂 Nord(ノール)」のバター入りあんぱんで、葉っぱに見立てたのが「パン工房 Nohmi(ノーミ)」の黒・白あんぱんだ。福岡を代表する2人の若きあんぱん職人による(勝手に)コラボレーションである。今さらながら、しみじみと実感した。昔から芸術的な才能は皆無なのだ。本当にもうしわけない気持ちでいっぱいだ。どう間違うと、あれがこうなるのか見当もつかない。ひょっとすると、テーブルが悪いのかも。
 

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by TigerSteamer | 2015-01-21 13:59 | 食べ物一般

幻のオレンジペコー

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 オレンジペコーとは、茶葉の等級を指す言葉であって、別にオレンジの果汁やピールがはいっているわけではない。新芽の部分を多く含んでいて、それがオレンジ色をしていることからその名がついたらしい。鯛焼きに鯛がはいっていないようなものだろうか。

 今を去ること20年程前、低価格が売りのファミリーレストラン「ガスト」で、僕は初めてその名を知った。ホットドリンクバーだった。ダージリン、セイロンティーやアップルティー、烏龍茶、緑茶など、飲み放題のティーバッグのコーナーに、オレンジペコーも含まれていた。
 当時、学生だった僕は、ガストに行く度にドリンクバーを注文し、両手では掴みきれないくらいのティーバッグをこっそり持ち帰っては、自宅でそれを楽しんでいた。あまり褒められたことではないけれど、お茶っ葉にも事欠くほど金がなかった。 おそらく店員にはバレていただろう。裏で不名誉なアダ名をつけられていても文句は言えないくらいの常習犯だった。
 ティーバッグのほとんどは1回こっきりの使用にしか耐えず、2度目からは色も味もつかない代物だった。その中でも、オレンジペコーは特に薄かった。2つ3つまとめてポットに入れて、長時間煮だしても薄い色しかつかず、紅茶の味もしない。そしてなにより、妙に酸味が強くて、柑橘系の濃い香りがしたのだ。匂いつき消しゴムのような毒々しさを感じた。まさしく人工的なオレンジの味と香りだった。それでも、これはそういうものなのだと信じて疑わなかった。
 オレンジペコーにオレンジは入っていないと知ったのは、それから随分経ってからのことだ。

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 夜勤の帰りに、ガストへ立ち寄って、ランチメニューとドリンクバーを注文した。しかし、そこにオレンジペコーはなかった。あれは一体なんだったのか、僕の回りに当時を知る者はいない。
 

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by TigerSteamer | 2015-01-13 12:30 | 食べ物一般

歓喜の歌

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 信号待ちで立ちゴケしそうなくらい腹が減っていた。急用を思い出したことにしてマスツーリングの列から離れ、この店を目指したまではよかったけれど、途中で雷を伴う豪雨に見舞われて立ち往生したものだから、着いた頃には日が暮れかけていた。朝から何も口にしていなかったせいで、低血糖を起こす寸前だった。

 以前にも一度、この店を訪れたことがあった。その時は、月に何度もない定休日に泣かされて、目当てのものを食べることができなかった。今回が再挑戦というわけだ。
 とはいえ、熱望するほど大した食べ物ではない。大分県の郷土料理で「やせうま」という。小麦粉を水で溶いて手延べにしたものを茹で、きな粉をまぶしただけの子供のおやつだ。作家の椎名誠が雑誌のコラムで、麺文化不毛の地(大分県のことだ)における唯一の隠し玉的なことを書いていたけれど、贔屓目に見ても大のおとながわざわざ食べに行くほどのものではない。
 なんでも、大昔に当地を訪れだ偉い人が、「八瀬」なる従者に「うまいものをもて」と言ったのが名前の由来なのだとか。僕はてっきり「痩せた馬」なのだと思っていた。駄洒落めいた由来よりもむしろ、老いさらばえて肋の浮いた痩せ馬の方がしっくりくる、それくらい素朴で地味な食べ物だ。

 ただし、あの日、苦行に満ちた道のりの末に僕が口にしたものを除いては。
 あれは僕の知る「やせうま」ではなかった。ひと噛みごとに活力が漲る魔法の食べ物だった。モチモチした歯ごたえが顎を伝って全身の筋肉を引き締め、きな粉の滋養が瞬く間に吸収されて血管を駆け巡る。干からびかけていた一つ一つの細胞質基質に糖分が行き渡り、瞬く間に瑞々しさを取り戻して一斉に歓喜の喘ぎ声をあげ始めるような、未だかつて経験したことのない愉悦をなんと名付けよう。止まらないのだ、天の導きに呼応するかのように体の底から溢れ出す喜びの歌が。おお友よ、このような旋律ではない。 もっと心地よいものを歌おうではないか。もっと喜びに満ち溢れるものを。

 歓喜よ、神々の麗しき精霊よ、天上楽園の乙女よ。我々は火のように酔いしれて崇高な汝の聖所に入る。汝が魔力は再び結び合わせる。時の流れが強く切り離したものを、すべての人々は兄弟となる。時の刀が切り離したものを、物乞いらは君主らの兄弟となる。汝の柔らかな翼が留まる所で一人の友の友となるという。
 大きな成功を勝ち取った者、心優しき妻を得た者は、彼の歓声に声を合わせよ。

 そうだ、地上にただ一人だけでも、心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ。そしてそれを成し得ぬ者は、この輪から泣く泣く立ち去るがよい。
 すべての存在は自然の乳房から歓喜を飲み、すべての善人もすべての悪人も薔薇の路をたどる。自然は口づけと葡萄酒と死の試練を受けた友を与えてくれた。快楽は虫けらのような者にも与えられ、智天使ケルビムは神の前に立つ。
 神の壮麗な計画により太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように、兄弟よ自らの道を進め。英雄のように喜ばしく勝利を目指せ。

 抱き合おう、諸人よ。
 この口づけを全世界に。
 兄弟よ、この星空の上に愛する父がおられるのだ。
 ひざまずくか、諸人よ。
 創造主を感じるか、世界よ。
 星空の上に神を求めよ。
 星の彼方に必ず神は住みたもう。
 父なる神は宣う、
 空腹こそは最高の調味料であると
 
店舗情報
甘味茶屋
大分県別府市実相寺1−4
評価(星3つ)
使った金額3,000円~4,999円

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by TigerSteamer | 2014-12-02 03:58 | 食べ物一般

秋のソナタ

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 削除したつもりはないのだけれど、なぜか消えてしまった。岩下コレクションに展示してあった「ドゥカティ アポロ」に関するネタと、大分県日田市夜明中町にあるカフェ、アウローラの「梨のパフェ」を紹介した記事だ。考えにくいことではあるけれど、ブログ更新用のアプリを手慰みにしていて操作を誤ったのかもしれない。

 前者はどうでもいいとして、後者はかなりショックだった。パフェをイングリット・バーグマン、コーヒーをハンフリー・ボガードに例えて、名画『カサブランカ』風に味付けした力作だった。梨の白とベリー系ソースの赤がまざりあって、薄桃色のカサブランカ(厳密には白以外はカサブランカではないらしい)を連想したことから、さらに捻って同名の映画を盛り込んでみた。書き上げるまでに半月ほどかかっただろうか。そういう意味では、アップロードした時点でアウローラには申し訳ないことをしたという自責の念があった。僕が念入りに書き上げた文章は長すぎて支離滅裂になるきらいがあり、敬遠されがちで誰の目にも留まらないのがお約束だからだ。だから考えようによっては消えてよかったのかもしれない。

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 まだ鬼が笑うくらい先の話には違いないけれど、あと2ヶ月ほどで今年も終わる。例年通り、秋口からこの時期にかけては何やかやと忙しくて、のんびり(何かのついでではない)ツーリングもままならなかった。だからむしろ、寒くなり始めてからが僕にとってのオートバイシーズンだ。もう梨の旬は終わりだけれど、阿蘇方面ツーリングの経由地である日田には、冬場に出回る「晩三吉」という種類がある。年内にもう一度くらいは、オートバイに乗って店を訪れたいと思っている。
 

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by TigerSteamer | 2014-10-25 16:53 | 食べ物一般

まだSSTRは終わらない ②

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 どんなものなのか想像がつかなかったわけではないけれど、正直なところを言えば、こいつは僕には荷が勝ちすぎるかなと思った。なにせ想像していた以上に塩っ辛い。親父殿の減塩食につきあって、すっかり薄味に慣れきった舌では味わうことすら難しい。お茶漬けをセレクトしたのには、そういう理由もあった。

 粗熱を冷まして少なめによそったご飯の上に、1cmの厚さにスライスしたフグの子糠漬け(フグの卵巣の糠漬け)をひと切れ、トースターで軽く炙ってから載せる。納豆は小粒を使う。糸が消えない程度によく練ったものを、味付けはせずに、フグの子と混ざらないように配置する。お茶はグラグラ煮え立つような熱湯で薄めに淹れる。注ぐのはフグの子の上だ。塩気を洗い流すようにして、まんべんなく、ひたひたまで。皮は途中で除くとよい。すると丁度よい具合にハラリとほぐれる。箸をつける際は、まずは全体をかき混ぜてからだ。納豆の粘りがお茶に乗り移って、ふんわりとトロみを帯びる。付かず離れずくらいの距離感がいい。ジャバジャバ掻きこむと、普通に納豆を食べるのではわからなかった豆の風味と、フグの子のコクと塩気が口の中に広がる。ぬめりが落ちた豆の食感もいい。
 これが僕好みの調合、と言うほどのことでもないけれど、あれこれ試してみた結果だ。他のものならやらないセオリー違反を、あえていくつか試している。納豆トッピングはこれが楽しい。

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 世の中には人の考えの及ばぬところで、たまたま生まれた食べ物、ないしは飲み物がある。有名どころではパンだ。もともとは小麦粉を捏ねただけの生地で硬い物しかなかったが、なんらかの理由で焼く前の生地に菌が取り付き、発酵して柔らかくなった。チーズは羊の乳をヤギの胃袋で作った容器で保存することにより、偶然にできたものらしい。茶葉をアジアからヨーロッパへ船で輸送する間に、船倉で発酵してしまったものが紅茶の起源だという説もある。
 フグの卵巣の糠漬けは、おそらくこれらと同様に、神様のいたずらによって生まれた食べ物ではないかと思っていた。たとえば先にフグの身を用いた糠漬けがあり、その製造過程で誤って卵巣が混入したと考えたらどうだろう。知らずに食べてしまって後で慌てたが、時間が経っても体調に変化はなかった。ここにフグの子糠漬けの起源がある。
 そんなことはありえないと断言する人もおられようけれど、僕くらいボンヤリした人間が作っていたと考えれば、過去の失敗から鑑みるに十分納得できる。

 ところが、1ヶ月近くに渡り実際に食べ続けてみて考えが変わった。このフグの子糠漬けからは、なんとしてでも食ってやろうという執念を感じる。数多の尊い人命を奪ってきたフグの卵巣を、痛めに痛めつけて、懲らしめてやろうという怨念にも似た負の感情がこめられている。人間様の沽券に関わる問題として、命をかけて取り組んだ人がいるに違いない。華岡青洲の妻ではないけれど、糠漬けという術を見出すまでに、何人か身内を殺していてもおかしくないくらいの使命感が宿っている。

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 僕も若くはないから、血圧のことを考えると大量に食べるわけにはいかない。せいぜい一日に一片だ。出勤前のただでさえ気忙しい時間帯に、たっぷりと余裕をもって、いつもより30分早く起きる。そして納豆を練る。毎朝1杯ずつフグの子納豆茶漬けを食べる生活は、単調な毎日に思いもかけぬ充実感をもたらした。優雅でのんびりした朝食は体にも良い。

 そんな楽しい時間も、あっという間に過ぎてしまった。千里浜から持ち帰ったフグの子糠漬けは3ブロック。そのうちの1つは、たびたびこのブログでもネタにしている髭面の強面氏に、お詫びの気持ちを込めて献上した。残り2ブロックもあれば十分だろうと思っていたけれど、結果から言えば足りなかった。この倍は買っておくべきだった。お茶漬けの試行錯誤に日数を費やしすぎて、予定していた他のメニューに活かせなかったのが大きい。物足りないくらいが丁度いいのはどの食べ物にも共通しているから、ここらで切り上げるのが吉かもしれないけれど。
 タッパーの底に残った最後の数片を、思い切ってフグの子納豆スパゲティにしてみた。茹で上がった麺を、刻んだニンニクと鷹の爪、ほぐしたフグの子と一緒にオリーブオイルで炒める。皿に盛ってから引き割り納豆を上に乗せ、刻み海苔を散らしてできあがり。画像が美味しそうに見えないのは、例によって撮影者の腕のせいだ。〆にするにはインパクトに欠けるけれど、安定していて実に美味かった。これにて僕のSSTR2014はおしまいだ。

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 食後の感想をブログに活かすべくPCに向かって、そこでハタと気が付いた。一番大切なことを忘れていた。画竜点睛を欠くとはこのことだ。
 まだSSTRは終わらない①で用意していた伏線を拾いそこなった。あと一品、最後の最後にオチとして試すつもりでいた。蜂蜜入り納豆からインスパイアされた隠し球、名付けて「炙りフグの子のハチミツ納豆ソースがけ」だ。こいつをワインのあてにして晩酌を楽しむつもりでいたのだ。
 惜しい。どうにも心残りだ。SWTR後記を「次回参加の予定はない」と締めくくったけれど、もう1回くらいはフグの子糠漬けを調達しがてら参加してみようと思う。次回は絶対に連休をとって、ここには書けなかった2日目のプログラムにも参加するつもりだ。そしてテーマはもちろん変わらない。

 前言を翻すようで気がひけますが、そんなわけですから、来年もまた千里浜でお会いしましょう。皆さん、その日までさようなら。
 

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by TigerSteamer | 2014-06-20 00:05 | 食べ物一般

まだSSTRは終わらない ①

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 サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリーが終わって1週間が過ぎた。強行軍の疲れもあらかた抜け、イベントの余韻も薄れてきた頃合だ。九州から参加したライダーの間では、今回の反省を次のラリーで生かすための反省会を開こうという話もでているけれど、次回は来年の開催のようなので、まだ鬼が笑うくらい先の話だ。ここらで一区切りつけたい。

 しかし本当の意味で、僕のSSTRはまだ終わってはいない。旅のテーマである大分県と石川県の融合、「納豆とフグの卵巣の糠漬けのコラボレーション」を完遂していないからだ。
 本当ならラリー終了後、パーティーの席で行うはずだったのだけれど、用意されていたのが白飯ではなくピラフだったものだから、その場で実行するのは控えた。納豆にしろ粕漬けにしろ、食べ合わせるのは白飯と相場が決まっている。そこで持ち帰ってゆっくり味わうことにしたわけだ。羽咋市長が言っていた日本一の米で試せなかったのが心残りだけれど、新米が出回る季節ではないから仕方がないのかもしれない。

 一応はお土産の名目で持ち帰ったのだけれど、密封パックにハサミを入れた途端、家族は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。どうも臭いがダメだったらしい。しかし、購入者責任で僕が一人で片付けることになったのは願ったり叶ったりだった。
 惜しまれるのは、よく内容を吟味することなく購入してしまった点だ。ゴール直前で時間がなかったし、そこそこのお値段だったものだから、品質はそれに比例するものと疑いもしなかった。後から調べたところによると、最高品質のものは鮮やかな山吹色で、質が落ちるにつれ黒っぽくなるのだそうだ。僕の買い求めたものは暗い茶色だったから、あまり良いものではなさそうだ。これが明太子であれば、鮮やかな赤は例外なく着色料であり、天然に近いものほど食欲のわかない色味をしているのだけれど、フグの卵巣の場合はあてはまらないらしい。

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 味は予想通りだった。ひどく塩っ辛い。酒飲みが喜びそうだ。スライスして軽く炙ったものにレモンを添えて出したら、とたんに相好を崩しそうな知人の顔が数人ぶん思い浮かんだ。しかし、当の僕はアルコールが得意ではないのだ。例外的にワインだけは好きだけれど、残念ながらイケる口ではない。ためしに蜂蜜を垂らしてみた。ブルーチーズの要領だ。トゲトゲした塩味もクセのある臭いも共通しているし、同じ発酵食品なわけだから相性は悪くはなかろうと思ったのだ。

 さて、肝心の納豆なのだけれど、まことに残念ながら、組み合わせとしてピッタリとは言い難い結果に終わった。ネバネバに絡み取られて、プチプチと楽しい卵の食感がなくなってしまった。混ざりやすいように引き割りを使ったのが裏目にでたのかもしれない。塩味の納豆というのは決して悪くはないのだけれど、ただでさえ加減が難しい。糠漬けを生かそうとすれば味が濃すぎるし、少なくすれば納豆に埋没してしまう。さすがは、人見知りが激しくて独りよがりな大分県と、プライドか高くて保守的な石川県のカップリングだ(県民性に関しては、こちらを参考にした)。一筋縄ではいきそうにもない。ここは一つ、腕のいい仲人が必要だ。共通の趣味あたりから攻めるのはどうだろうか。

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 フグの卵巣の糠漬けの楽しみ方の一つに、お茶漬けがある。ググれば真っ先にヒットするから、きっとオーソドックスな食べ方なのだろう。さっそく試してみたけれど、聞きしに勝る美味さだった。この初回の実験のために、ご飯を3杯食べたのだけれど、3杯目にしてもっとも喉の通りが良かった。絶品だ。
 そしてお茶漬けといえばアレだ。かのグルメの大家、北大路魯山人がこよなく愛したという納豆茶漬けがある。

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 これは是非とも試してみる価値がある。茶葉は僕の地元である福岡県産の八女茶を使用する。おしゃべり好きで面倒見の良い福岡県は仲人にはうってつけだ。(次回に続く)
 

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by TigerSteamer | 2014-06-02 12:21 | 食べ物一般

floreo(花は咲く)

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 アウローラのケヤキに花が咲き、いっせいに若葉が芽吹く頃、久しぶりに店を訪れた僕の耳に、嬉しいニュースが飛び込んできた。
 去年オープンしたこの店は、6月でちょうど1周年を迎えようとしている。その記念というわけではなかろうし、まだ暫く先の話にはなるけれど、今年の夏はパフェをメニューに加えるのだそうだ。

 初めて店を訪れた時に、アウローラにぴったりな梨を使ったスイーツについて、あれこれ夢想したことを思い出した。オープンから1年が経って、撒いた種が蕾をつけた。
 ケヤキの花の蕾は小さくて地味だ。若葉とともに花が咲くので目立たないけれど、よく見ると櫛切りにした梨の実を、精巧な細工を施したボヘミアガラスの器に盛り付けたような姿をしている。モチーフとしては梨の花も捨てがたい。花弁を模したデコレーションはどうだろう。決して甘すぎず歯切れの良い梨の果肉は、真っ白で楚々とした花びらにも通ずる。
 パフェのデザインは既に、ママさんの頭の中にあるらしい。アウローラのメニューは、どれもこれも美しい。同じ店内で手作りの雑貨も販売している、彼女のセンスの賜物だ。だからもう何の提案にもならないのだけれど、もし願いが叶うなら、こんなデザートも食べてみたい。

 どうか僕の特別なお店が、これからも陽の光をたっぷり浴びて、すくすくと枝を伸ばしますように。10年後も20年後も、夜明けとともに旅路を照らす道標でありますように。
 
店舗情報
アウローラ
大分県日田市夜明中町2297-3

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by TigerSteamer | 2014-05-20 20:00 | 食べ物一般

すき焼きが好きやき

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 すき焼きは好きだが、基本的に玉子は使わない主義だ。肉の味がわからなくなるというのがその理由だ。基本的と言うからには例外もあるわけで、場合によっては使うこともある。ただし、黄身を潰すことはない。白身のみを肉に絡めて食べる。もう長いこと、その食べ方しかしたことがない。

 そうでなくても常識のない人間には違いないけれど、食にまつわる部分に関してはハナから無視してかかる習性がある。少々見た目が悪かろうが、美味しければそれに越したことはないと思っている。たいして育ちが良いわけではないので、食事の作法やエチケットを持ち出されると困ってしまうのだけれど、そういった約束事とは別に、世の中には食べ方の王道邪道に拘る人がいる。粋じゃないとか、本来の食べ方に反しているとか、果ては『主義』を持ち出す人もいて閉口する。美味しく食べている横で取るに足らない薀蓄を語られたりすると、この野郎、黙って食えと言いたくなる。
 その僕がなぜ、すき焼き限って食べ方に固執するのかといえば、むしろそれが美味しく食べるための理にかなっていると感じるからだ。肉の品質が高ければ、なにもつけずにそのままを食べる。言わずもがな、素材の良いところを堪能するためだ。安い肉である場合に限っては玉子の白身を用いる。煮込まれて脂が溶け出すと、全体が萎んで舌触りが悪くなるから、それを補うためだ。
 自分を食通だと思ったことはないし、どちらかといえば味音痴に近いのだけれど、他人が溶き玉子に肉を沈めてズルズル啜っているのを横で見ながら、なんて節操のない食べ方をするものだと鼻で笑っていた。嫌味な男だ。

 以前、友人に連れられて老舗のすき焼き屋を訪れた際に、仲居さんから卵を使うことを強く勧められたことがあった。肉の味がわからなくなるからと頑なに手を出さないでいたところ、しまいには半ば強制するような口ぶりで、そんなことを言う客は初めてだ、騙されたと思って試してみろと断言する。場の雰囲気を悪くするのもなんだし、仕方なく従うことにした。そして、もちろん旨かった。まったく予想通りの美味しさだった。
 実際のところ、僕も皆と同じ食べ方をしたいのだ。落語『そば清』の有名なマクラではないけれど、このままでは「死ぬ前にもう一度、溶き玉子にドップリつけたすき焼きの肉を食べたかった」なんてことになりかねない。

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 そもそもこの食べ方は、僕のオリジナルではない。いまから二十年くらい前だろうか。たまたま見に行った落語会で、桂三枝(今は桂文枝)が高座にかけたネタの中に出てきたのだ。演目を『遠慮のかたまり』だと間違って憶えていたのだけれど、正しくは『スキヤキ』だ。高座で実際にすき焼きを作りながら演じるという、大変に斬新な創作落語だった。
 あらすじはこうだ。
新しく赴任してきた人のために、上司の家で歓迎のすき焼きパーティーをする。上司が自ら作ろうとすると、部下が脂の量に文句をつけてきた。聞いてみると、自分は大学のときに料理を研究して、究極のすき焼きを見つけたというので、それを作ってもらう。

食べている間もすき焼きの思い出話になり、新しく赴任してきた人は兄弟が多くて、子供の頃はとても肉を口に入れることができなかったとのこと。四年に一度のスキヤキのときには、兄弟が本気で肉を争っていた。実はつい先日も親が亡くなって、スキヤキを食べながら遺産分けの話をしたら、自分は思い出の土地家屋を売りたくないのに、他の兄弟が売ると言って、大喧嘩になったという。

そこに自宅から電話がかかってきて、その兄弟が今から家にくるとのこと。上司が、すき焼きで仲直りをしろと気を利かせて、余っている肉をおみやげにして持たせる。男が家に帰ると、妻がお義兄さんが来ると言うので、急いで肉屋に行って、すき焼き用の肉を分けてもらったという。そこに兄がやってきて、遺産分けのことでもめて済まなかったと謝る。お前の言うとおり、思い出の土地家屋は売らないことにした。これからも兄弟仲良くやっていこうと、兄が差し出したお土産がスキヤキの肉だったというサゲ。(『桂三枝の創作落語あらすじメモ』より転載)
 厳密に言うと、僕が見たのとは後半の展開が違う。たしか、最後に残った一切れの肉(これを「遠慮のかたまり」と呼ぶ)を、家で帰りを待っている太郎の土産にしたいと申し出て上司をしんみりさせたものの、実は太郎は人間ではなくて犬だったというサゲだった。「さあ太郎、お食べ」「ワンワン!」に腹を抱えて笑った。細かいところまで憶えているわけではないけれど、玉子の使い方については、”究極のすき焼き”のくだりに出てきた。実にくだらなくて、あんまり面白かったものだから、すき焼きの正しい食べ方として、しっかり胸に刻まれたというわけだ。そしてそれ以来、僕はすき焼きを心の底から堪能できずにいる。

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 すき焼きは好きだが、基本的に玉子は使わない主義だ。肉の味がわからなくなるというのがその理由だ。肉の品質が高ければ、なにもつけずにそのままを食べる。安い肉である場合に限っては、口触りを良くするために卵の白身を用いる。 
 主義とは本来、揺るぎない国の指針を指す言葉だ。これを個人のレベルに当てはめると、時として精神論の領域に踏み込まざるを得ない。その結果、行動の幅を狭め、狭量で堅苦しい人物ができあがる。

 僕の安月給では、高級なブランド肉などおいそれと口にできるものではない。情けないけれど、必然的に卵の白身を使うことになる。いっそ黄身も潰してしまえばいいのだろうけれど、なんだかそれもできない。主義だと言いつつ根がノンポリである僕は、すき焼きを前にしみじみと思う。死ぬ前にもう一度、溶き玉子にドップリつけたすき焼きの肉を食べたい。いやむしろ、玉子の白身を使わなくてもよい高級な肉を、腹いっぱい食べてみたい。
 

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by TigerSteamer | 2014-03-06 08:00 | 食べ物一般