2013年 09月 05日
吉野家の功罪
僕は𠮷野家の牛丼が大嫌いだ。いや、正確に言うと大嫌いというわけではない。ただ単に嫌いだというニュアンスでは語り切れないのだ。もとい、決して嫌いではない。そもそも好きとか嫌いとかいう基準は適切ではない。どちらかと言えば好き寄りだか、それは嫌いかと聞かれれば好きだと答える程度であって・・・ええい、大好きだ。吉野家とすき家となか卯と松屋が喧嘩をしたら、どんな原因であれ吉野家の肩をもつが、誰も見ていないところではコッソリ蹴りを入れる。そのくらい大好きだ。
この大嫌いだけど大好きという、わけのわからない矛盾した感情は、なにも少女漫画チックな乙女心に根ざしているわけではない。四十を過ぎた男が、気色の悪いことこの上ない。いや、どっちみち気色の悪いことには違いないのだけれど、この際だからハッキリ言っておきたい。
一人暮らしをしていた頃は、毎朝出勤の途中に立ち寄り(夜は毎晩これ)、丼や定食を食べていたこともあった。味は悪くないし、値段もリーズナブルだ。店内の雰囲気も以前ほど(中島みゆきの歌に出てくるような)には悪くない。定期的に品書に加わっては、定着する前に消えていく新メニューも良い味を出しているし、定食メニューは言うに及ばず、サイドメニューの類も好きで毎回食べている。今回、牛丼の並と一緒に初めてカレーを頼んだのだけれど、これはこれで悪くはなかった(特別美味しいとも思わなかったけれど)。
では何が気に食わないのかと言うと、僕は吉野家の牛丼に対して抵抗があるのだ。牛丼が嫌いなのではない。別にそれが、「吉野家の牛丼」であれば構わない。数年前の狂牛病騒動から長い自粛期間をおいて、メニューに復活すると聞いたときは諸手を上げて喜んだものだ。しかし、すっかり人口に膾炙した吉野家の「牛丼」だけは断じて受け容れがたい。
初めて口にしたのは中学2年生の時だった。クラスメイトに誘われて初めて吉野家を訪れた。クラブ活動の帰りだったように記憶している。吉野家と言えば、牛丼の並と大盛と特盛、ごぼうサラダとお新香。あとは、味噌汁くらいしか選べなかった頃の話だ。カウンター席しかない狭い店内といい、殆ど選択肢のないメニューといい、明るい配色ながら華やかさに欠ける雰囲気といい、かなり物珍しさを覚えた。子供だけでの外食などしたことのない頃の話だから、少ない小遣いを握りしめて、感慨もひとしおだった。
さて、肝心要の「牛丼」を目の前にして、僕は正直なんじゃこりゃと思った。たしかに牛丼を頼んだはずなのに、出てきたものは僕の慣れ親しんだ牛丼とはかけ離れたものだったからだ。
我が家の牛丼は、必ず卵とじの形態をとっていた。世間でいう「他人丼」という奴だ。後に「牛とじ丼」という名を目にすることがあったから、ひょっとすると地方によって呼び名が異なるのかもしれない。ちなみに、うちの田舎で「他人丼」と言えば牛肉ではなくて豚肉が入っているのだけれど、同じ物を「豚玉丼」と呼ぶ場合もあるので、同様に場所によって異なるものを指すのかもしれない。
おそらく、牛丼と言えば吉野家のものが一般的になる以前は、作る家庭によってまちまちであり、これといって決まったスタイルはなかったのだろうと思う。現に、僕と同年代から年配の人の中には、吉野家の牛丼は世間一般で言う牛丼ではなくて、あくまで吉野家独自のものであると認識している者が少なくない。それに対して、若い年代の指す牛丼は、ずばり吉野家のスタイルである。これは絶対と言っていい。
なにも「吉野家の牛丼」が嫌いなわけではない。吉野家が世に送り出し、続くすき家やなか卯が世間に定着させてしまった「牛丼」が受け容れがたいのだ。
これは余談ではあるけれど、僕の父は料理に対して大変厳格(偏屈と言ってもいい)で、考えようによっては手抜き料理の代表格である丼物を毛嫌いしているきらいがあった。だから、丼物は子供達のための料理であり、それは学校が午前中で終わり、なおかつ父が不在の土曜日にのみ作られる特別な味だった。我が家の牛丼とは、決して上等ではないけれど、しっかり味のしみこんだ牛肉にふっくら卵と甘辛いタレが絡まる至福の料理なのだ。
ママの作った料理が一番なんて力説するのは、四十をすぎた男として気色の悪いことこの上ないが、子供の頃から培われた観念だけは捨てられない。マザコンだと笑わば笑え。どう転んでも吉野家の牛丼を牛丼と言いたくない理由がここにある。
って話はおいといて、やっぱり牛丼は吉野家だよなあ。
と言い張るおれを含めたおっさんに共通しているのは「吉野家vs養老の瀧」の牛丼戦争を経験していることだと思う。『めしばな刑事タチバナ』を読んで確信した。こういうおっさんは「特盛り? 最近のメニューだね」とか言ったりする。そして「やったねパパ」と振れば「明日はホームランだ」と返ってくる。