2011年 01月 14日
豆腐問答
あくまで検査であって治療中というわけではないから、あまり深刻には考えていない。それどころか、通院を楽しみにさえしている。この病院の雰囲気のせいかもしれない。
およそ医療機関らしくない。病院にありがちな無機質さは一切感じられない。白っぽくもないし、ツルツルテカテカもしていない。消毒液の臭いもしない。予約制なので混雑することもない。待合室などホテルのロビーのようで、気が付くとすっかり寛いでいたりする。長い付き合いになりがちな種類の専門医だからこそなのかもしれない。
設備のわりにこじんまりとした病院なので、スタッフの数は少ない。1年も通っていると、看護士や受付のお嬢さんともすっかり顔なじみになった。みなフレンドリーで、待ち時間にはさりげなく話しかけてくれる。そういう教育を受けているのだろうと思う。
この日も恒例のように、検査が終わったあと結果が出るまでの待ち時間を、受付のお嬢さんとのおしゃべりで費やした。
「検査の結果が良かったら、また何か食べに行くんですか?」
「うん、日曜日に呼子へイカでも食べに行こうかと」
「わあ、いいですね。わたしも行ったことあります。あの橋のたもとのお店、なんていうんでしたっけ」
「萬坊?」
「そうそう、イカシュウマイ大好きなんですよ。また食べたいなあ」
「なんなら一緒に行こうか?」
「それがダメなんですよ。日曜はツーリングで長崎に行くんです」
とっさに言葉を返せなかったのは、誘いをあっさりかわされたからではない。彼女の口からツーリングなどという言葉がでてくるとは思わなかったのだ。オートバイに乗るとは到底思えない。どちらかというと、男性の運転する高級車の助手席に納まっているイメージの方がしっくりくる。人を見た目で判断するのは良くないけれど、最近稀に見るお嬢様風の美人で、およそ活発なタイプには見えない。華奢で身長は150センチを少し上回るくらいだ。足は届くのだろうか、倒してしまった時に自分で起こせるのだろうかなどと、余計なお世話だと言われそうな疑問ばかりが次から次へと浮かんだ。
「ツーリングって、ひとりで?」
「いえ、ツーリングチームの子達とです」
「ちなみに、何に乗ってるの?」
彼女は誇らしげに、少し胸を張った。
「ビーエムダブリューの750です」
「ずいぶんシブい趣味だね」
「似合わないですか? 友達にもわかってなさそうってよく言われます。でも、こうみえて私、けっこう詳しいんですよ」
BMWの現行のラインナップに750という排気量はない。ただ、長い歴史の中で、750ccのオートバイを作っていた時期があることだけは知っていた。あまり詳しくはないのだけれど、かなり玄人ウケのする車種だったはずだ。とすると、彼女の言う「詳しい」というのはまんざら誇張ではないのかもしれない。
「本当は父の持ち物なんですけど、最近はあんまり乗らないので、ほとんどわたし専用なんです」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
彼女の苗字が病院の名前と同じであることは、胸のネームプレートを見て気付いていた。それまで深く考えたことはなかったけれど、ひょっとすると院長の娘なのかもしれない。ということは、元々のオーナーは僕の診察を担当している年配の医師ということになる。
オートバイに限らず、父親からなにかの手ほどきを受ける娘の図というのはいいものだ。思い浮かべるだけで胸がほんのり温かくなる。僕はつかの間、幸せな想像に浸った。
「もしよかったら、そのツーリングに混ぜてくれないかな」
足つきがどうとか、下世話な関心はすっかり吹き飛んでいた。純粋に、オートバイに跨る彼女の姿が見てみたかった。娘の成長を見守る父親になりかわったような気分だった。
「呼子はいいんですか?」
「うん、迷惑じゃなかったらだけど、そっちの方が楽しそうだし」
彼女は眉根に皺を寄せて俯いた。考えているというよりは、返答に困っているようだった。
「うーん、やめといたほうがいいかもしれません」
「どうして?」
勢いで申し出てはみたものの、断られるかもしれないとは思っていた。SNSのコミュニティのような集りなら話は別だが、仲が良いわけでもない相手が、とつぜん仲間内のツーリングに参加したいなどと言い出したら、誰だって躊躇するにちがいない。
「うちのメンバーってレースとかやってる人が多いから、けっこう飛ばすんです」
「飛ばすって、一般道で?」
「みんないい大人なので、下道ではそれほどでもないんですけど、でもやっぱり上手いです。ぼんやりしてたら置いていかれますから」
「隊列組んで走るわけじゃないんだ」
「出発地点とゴールだけ一緒ってかんじですね。みんな容赦ないから、誰も待っててくれないんです」
「へえ」
「わたしなんかついていくのがやっとですから」
「別に置いていかれても構わないんだけどな」
しつこく食い下がったのは、そうまでして参加したかったからではない。すこしカチンときたのだ。
例えば、友達だけの集まりだから遠慮してくれとか、今はメンバーを募集していないからダメだとか、言いようはいくらでもあるはずだ。それなのに、わざわざ運転の上手い下手を前提に断ろうとする、その態度が気にくわなかった。
「うーん、でもやっぱりやめといたほうがいいと思いますよ」
「じゃあ、勝手についていくってのはダメ?」
「ダメってわけじゃないんですけど・・・今度のツーリングは高速がメインになりますから、苦しいと思います」
「高速ならなおのこと平気だと思うけどな」
単純にテクニックだけの話をするならば、確かに僕はあまり運転が上手いほうではない。クソ度胸があるわけでもないし、乗っているオートバイだって最新のツアラーやスーパースポーツに比べれば非力な部類に入る。ただ、僕は今まで自分のオートバイについて話したことはないし、彼女がいかに運転に長けていようと、乗っているのは所詮、型遅れのBMWだ。
「すいません」
「いや、そこまで言うならいいけどさ」
気がつくと、彼女はすっかり萎れてしまっていた。少し声が高くなっていたかもしれない。大人気なかった。オートバイの話になると、ついむきになってしまう。もともと彼女を困らせるつもりなど欠片もなかったのだ。
素直に頭を下げた僕を見て、彼女はおずおずと尋ねた。
「ひょっとして虎蒸気さん、別ので来るとか? いつも乗ってきてるやつじゃないんですか?」
「別の? タイガーっていうんだけど、マイナーな車種だから知らないと思うよ」
「タイガー? タルガ? ポルシェですか?」
「ポルシェ? いや、トライアンフだけど」
彼女の表情が一気に華やいだ。まるで花の蕾が開く瞬間を早回しで再生したかのようだった。こんな会話のさなかでなかったら、年甲斐もなく目尻を下げていたかもしれない。
「すごーい、トライアンフって英国車ですよね? わたしそっちはあまり詳しくないんですけど、虎蒸気さんってエンスーなんですか?」
「・・・・・・」
「ごめんなさい、いつものあの青い軽で来るのかと思って。でも、それならきっと大丈夫です」
「・・・・・・」
「リーダーやってる男の子、クアトロに乗ってるんですけど、わたしの大学の後輩なんです。今夜にでも電話して言っておきますね」
「なるほど」
「車に詳しい人なら大歓迎ですよ、きっと話もあうと思います」
「いや、ツーリングは遠慮しとくよ」
「・・・ひょっとして怒ってますか?」
「いや全然、むしろさっぱりした」
「?」
「それとごめん、俺のパッソだけど、あれ軽じゃないから」
「そうなんですか?」
ツーリング[touring]
〔各地を回って帰る意〕
(1)観光旅行。周遊旅行。
(2)自転車・バイクなどで、遠出をすること。また、カヌーなどの舟にもいう。遠乗り。自動車の場合はドライブ[drive]を用いる。
思わず声を出して笑ってしまいました(爆)